植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

仕事って、なんだ?

僕は、仕事とは、人の役にたつこと、だと思っています。
でも、この話をすると、聞いてくれている学校の先生の中には、
あからさまにクビを左右に振る人がいます。
または、「それは理想論です。世の中そんなに甘くない」と教えてくれる人がいます。

では、こういう人達は、どんな考えで仕事をしているのでしょう?

仕事とは、喰っていくために、しょうがなくするもの?
喰っていくためなら、人の役にたたなくてもいいのかな?
喰っていくためなら、人に迷惑をかけてもいいのかな?

まあ、たしかに、そういう仕事も沢山あります。
わざと壊れるように作ることで、消費を維持し続けるケースもあります。
本当は、もっと長持ちするのに、わざと賞味期限を短くしているケースもあります。
混ぜ物などで、量を増やしてるケースもあります。
価値が無い物を、価値があるように見せかけて売るケースもあります。
人の不安をあおって、安心っぽいものを売りつけるケースもあります。

少子化が問題視されてから顕著なのが、高校の統廃合です。
だから、各高校、生き残りをかけて必死です。
生き残るための大きな条件は、生徒数です。そして生徒数を増やす条件は、「成果」です。
だから、無理矢理、進学率や就職率をあげる学校があります。
お前は成績がいいんだから、もっといい学校を狙えるはずだ!
おまえなら、医学部も行けるぞ!
生徒本人の意志など関係なく、いい学校への進学を強要するケースもあります。
その結果、進学後に、学校をやめてしまう子や、心を病んでしまう子もいます。
家にお金が無いのに、無理矢理進学させられて、お金が払えなくて、家庭がめちゃめちゃになってるケースもあります。

または、無理矢理、大会で優勝したがる学校があります。
優勝したいから、能力の低い子は、いくらそのスポーツを続けたくてもやめさせられたりします。また、無理した結果、体を壊してしまう子もいます。

これは、大人の食い扶持のために、子どもの人生を犠牲にしてるケースです。
これは、人の役にたつ仕事といえないと思います。

喰っていくためにはしょうがないからと、無茶なビジネスをする人のおかげで、
生きていくための支出が増えて、その支出を支払うために、他人に迷惑をかけてまでお金を稼いでるとしたら、それは悲劇以外の何物でもないです。

僕は、「喰っていくためにはしょうがない」という言葉は、とても危険な言葉だと思っています。これは、「自分のために、他人を犠牲にしてもかまわない」という意味になることがあります。
でも、自分だけよい、なんていう都合のいいことはないです。
自分がずるしてよくしようとしたら、自分もそのシステムに飲み込まれるだけです。

だから僕は、その逆をやっています。
僕は、壊れない製品を作る努力をしました。壊れてもすぐ直せるようにしました。
それは、結果的には、使ってくれるお客さんに喜ばれました。
だから、沢山の人に使ってもらえるようになり、喰えるようになりました。
でも、壊れないものは、行き渡ったらおしまいです。
だったら、なるべく売らないのがいいです。
だから僕らは、無理に売らないです。お客様の話をよく聞いて、最適な解を考えます。
その解が、植松電機のマグネットを使わない、というのもありです。素直にそう伝え、「他のお客さんは、こういう方法でやっていますよ。」と教えると、たいていのお客さんは驚きます。
「そんな商売の仕方でいいの?」と言われます。でも、結局これが信頼になります。
お客さんが、ちがうお客さんを紹介してくれたりします。
だから、結果的には売れます。

この状態にするためには、苦労しました。沢山の「使ってくれるお客さん」の声を聞きました。
そして、そういうお客さんを第一に考えてくれる「売ってくれる人」とおつきあいするようにしました。その結果が現在です。

時々、僕らが開発中に生み出した試作品や、実験で使ったもの、または、僕の私物を、オークションに出したら、かなりの金額になりますよ。とアドバイスしてくれる人がいます。
実際に、ある展示会で配布した僕のペーパークラフトに、オークションで結構な値段がつていたことがありました。(ひどいはなしですが)
でも僕は、そんなことをしてまでお金をほしいと思わないです。
僕らのことを大切に思ってくれる人の愛情は、大切にしたいです。

喰っていくためにはしょうがない、という考え方は、自分さえも他人に食い尽くされる考え方です。だからこそ、いかにして、適切な方法で喰えるようにするかです。
僕は、その方法こそが、「人の役にたつ」だと思っています。
世の中の、悲しいことや、不便なことや、困ったことを改善しようとしたら、
それは仕事になります。
僕は、ぶれないでがんばります。そして、それを、子ども達に伝えたいです。

10年後、仕事の半分がなくなる、ということが不安な人へ

僕は、石炭を掘る町に生まれました。
だから、永久に続く仕事はない、ということを知りました。
どんな仕事も、寿命があります。

僕が高校生の時には、「日本語タイプライター」の資格がありました。難しい資格でした。
でも、まもなく、「ワープロ」の資格になりました。まだ、液晶が2行とか3行しか表示できない時代です。その資格も、結構大変な資格でした。
でも、ワープロって、いま見かけなくなりましたね。日本語タイプライターに至っては、博物館でしかみられないかも。
資格は、永久に仕事を保障するものではありません。

当時は、写真の30分プリント、が一気に成長した時代でした。
そこら中にDPEショップができて、1千万円ほどもする装置をどんどん導入していました。
でも、そのブームは、デジタルカメラと、インクジェットプリンターの普及によって、
ほんの15年ほどで急激に縮小していきました。

僕は、歴史が好きだから、歴史上、そんなことは沢山あったことを知っています。
そもそも、明治維新では、「侍」という、今で言う公務員が、仕事を失っています。
第二次世界大戦後にも、大きな価値観変化が起きています。

だから僕は、最近よく目にする、「10年後には今の仕事の60%がなくなる」というニュースを見ても、「まあ、そうだろうな。」としか思わないです。

でも、最近、意外なことに、かなり多くの人が、「なくなる仕事リスト」に自分が取得しようとしている資格や、なりたい職業を見つけて、絶望してることを知りました。
「せっかく資格を取っても、ムダになるんだ」と嘆いています。
でも、そう思う人に、だいたい共通しているのは、「まだ働いていない」です。
働いている人達は「まあ、そうだろうな。」と思ってる人が多いようです。
なぜなら、実際に働いてみたら、「資格」が自分の仕事を保障しないことも、
「就職」も自分の人生を保障しないことも、知ることができるからです。

残念ながら、学校で、「資格」や「就職」の価値を強調しすぎた場合、子ども達は、資格や就職に、過度に依存してしまうかもしれません。
そして、その反動で、資格や就職が価値を失ったとき、絶望するのかもしれません。

でも、実際には、資格さえあれば、どんな人間でも働けます、なんて職場は少ないです。
だいたい、資格があったって、その能力はピンキリです。だから、能力の高い人が優先的に雇用されます。

時々、有名芸能事務所に雇用されたら、有名タレントになれる、と思い込んでる人もいますが、
そんなわけないですね。芸能の仕事は、まさに自営業。商品は自分です。自分の努力が成果に直結します。
ちなみに、この場合の努力とは、きっと、「指示されたことを指示通りに、素直にまじめにやればいいんでしょ?」では、ないような気がします。

同じ事を繰り返したら、性能は高くなります。そりゃそうだ。慣れるし、覚えるし、体が反射的に動くようになります。それは、「習熟」という状態だと思います。
学校では、この「習熟」が評価に直結してることが多い気がします。

でも、実際には、社会は変化しているので同じ事が永遠に続かないことが多いです。
その、変化に適応しなければいけないときに、「今まで自分がやってきた習熟」に固執すると、変化に適応できなくなります。

社会の変化に対して、「自分はこれしかやってこなかった。これしかできない。いままで費やしてきた時間を無にできない。いまさら新しい仕事なんて・・・」と言ってしまう人を何人も見てきましたが、社会は容赦なく変化します。

栄枯盛衰です。おごれる者久しからずです。800年前から言われてるじゃない。
大事なのは、変化は当たり前だから、変化に適応することです。

絶望してるヒマも、凹むヒマも、時間の使い方としてはむだです。
自分なんて・・・もうダメだ・・・と思うのも、思考停止でしかありません。
喰えなくなっちゃってからでは、次の手を考えても、行動できない可能性が高いから、
喰えてるうちに、次の手を考えておくべきです。

来たるべき自動化の波に適応する最良の方法は、真っ先に、いま自分のやってる仕事を、
どうやったら自動化できるかを考えることです。
そうすれば、自動化しにくい部分や、自動化してもなお必要な部分が見えてきます。
場合によっては、それを自動化することを仕事にできるかもしれません。
僕は、会社の仲間には、「自分のやってる仕事の中で、単純な繰り返しや、やっても修練にならないことは、どんどん自動化や外部委託していいからね。そうやって生み出した時間で、やったことがないことをやっていこう。」と言っています。
この考え方で、できることを増やしてきました。

どんな不安も、不安がっているだけでは、その不安は現実になります。
不安は、なぜ不安なのかを考えて、対策すれば、不安ではなくなります。
時代の変化は不安かもしれないけど、思考することで、不安じゃなくなります。
ぜひ、「なんで不安に思うのか?」を考えてみてほしいです。













「成功した人のしゃべるきれいごと」という思考の原因

僕は、「どーせ無理」という言葉に負けないためには、「だったらこうしてみたら」だよ。
と伝えています。でも、僕のそういう考え方は、ときどき、
「そんなのは、所詮成功した人間のしゃべるきれい事だ。」と言われることがあります。
 
さて。
まず最初に、「成功」について考えてみたいと思います。
 
そもそも、「成功」とは、どのような状態でしょうか?
多くの人は、大金持ちとかはのぞんでいないと思います。
「自分の思うようにできる」状態を、成功した状態、と思ってる人が多いように感じます。
そう思うからには、「自分の思うようにならない」状態にある人が多いという事だと思います。
そりゃそうです。世の中は、そうそう簡単には、自分の思うようにはなりません。
 
自分の思うようにならないことを、自分の思うようにするには、どうしたらいいのか?
たとえば、お店の売り上げを増やしたいけど、増えない、という状態があったとします。
それを、いくら悔やんでもぼやいても、なにかのせいにしても、現状は変わりません。
僕だったら、なぜ増えないのか考えるでしょう。その原因を、排除する努力をします。
同時に、収支を考えます。収入を増やすのと、支出を減らすのは同じだからです。
可能な限り、支出を減らすでしょう。
また、売り上げだけ増えても、利益率が低下したら、忙しいだけで儲からなくなるし、
万が一、利幅が低い状態で売り上げが減少したら、在庫と、入金と支払いのタイムラグの関係から、あっという間に資金ショートします。だから、利益率を改善する努力もするでしょう。
 
ということを、僕はやってきただけです。
だから僕は、自分が成功したとは、まったく思っていません。
思うようにならないから、思うようになるように、考えて行動してるだけです。
イメージとしては、ノルマンディーの海岸で、ばんばん敵に討たれてる中、頭をかがめて、走り回ってる感じかな。
 
残念ながら、「思うようにならない」状態を、愚痴りぼやくだけで、何もしない人は、
そうじゃない人を、「成功した人間」と思うのかもしれません。
 
ではなぜ、「何もしない」のか。
それは、問題を解決する方法を知らないからです。
学校では、問題の解き方は教えます。でも、問題の解決の仕方はあまり教えません。
むしろ、悪いケースを教えてしまうことが多いです。
たとえば、人間関係で、いじめなどの問題があったとき、
勇気を出して先生に相談してみたら、なんだかあわただしくなって、雰囲気が悪くなって、
気がついたら、「いろいろと複雑な問題だから・・・・」とか言われて、結局なんにも変わっていない。というケースを経験した人は、「大人に相談しても、適当にごまかされるだけなんだ・・・」と学習します。
または、悩み事を相談してみたら、
「そんなの気にするな」「なんでそんなのと関わったの?」「もうすぐ卒業だからがまんしな」なんて言われたら、
「ああ、自分の悩み事は、自分のせいなのか。自分が気にするから、がまんできないからダメなのか・・・」を学習してしまいます。
要するに、問題を解決できない大人は、子ども達の問題解決能力をうばうのです。
 
ではつぎに、「きれいごと」について考えてみたいと思います。
「きれいごと」ってなんでしょう?
「論理的にはわからんでもないけど、現実にはできもしないこと」かな?
さて、「現実にはできもしない」の定義は?
現実とは、どの範囲?自分の知ってる範囲じゃない?
そして、できそうかできなさそうかは、自分の経験の範囲で判断してるだけでは?
また、いままでやったことがないからできない、と思う人もいるかもしれないですね。
でも、やったことがなければ、やってみればできるようになるはずですが、
やってみないと、できる範囲も広がりません。
ということは、経験値が乏しく、関わる世界が狭く、やったことがないことをやりたがらない人にとっては、「現実にはできもしない」は、すごく包括する範囲が大きくなってしまうでしょう。
時々、ロケット教室の会場でも、子どもがロケットを作ろうと頑張ってるときに、
「あー。ちがうちがう、何やってんの!ちゃんと説明書読みなさい!」
「勝手なコトしないで、先生に聞きなさい!」
あげくは「ちがうちがう、こうだろ? なんでこんなこともできないの?」なんて言い出す人も。
こういう人達は、子ども達の思考も、経験も行動も制限してしまいます。
そんなことでは、「どうやったらできるか考える」にはならないでしょう。
その結果「きれいごと」にしか思えないことが増えていきます。
 
どうやら、「所詮成功した人間のしゃべるきれいごと」と思う人は、
「問題にであったときに、解決する方法を考えられない」人のような気がします。
 
「自分1人ががんばったって、どーせ変わるわけがない。どーせできるわけがない。
それが現実だ。」
で、問題を解決する方法を考えるのをやめてしまった人にとっては、
現実社会は、とても生きにくいと思います。
生きにくいから、なおさらに、まわりを恨んだり、呪ったりしてしまうかも。
そのままだと、まわりに絶望をまき散らす存在になってしまうかも。
 
だからこそ、「だったらこうしてみたら?」です。
問題を分析し、解決策を考え、行動する。
これができる人が増えたら、「きれいごと」なんて概念はなくなるかもしれません。

恵那市の小学校にロケット教室に行きたいよ。

岐阜県恵那市に、素敵なパン屋さんがあります。
パン屋さんの名前は「ボネロ」です。
フランス語の「希望」です。

このお店は、いま、新しいことにどんどんチャレンジしています。
そのチャレンジの一つとして、お店に、本の紹介コーナーを作ったそうです。
そこに取り上げていただけたのは、僕の本。
このお店の、小学生の娘さんの手書きの本の紹介文がついています。
この紹介文を読んで、僕は泣いてしまいました。

僕は、人の自信と可能性がうばわれない社会を作りたいです。
優しい人が、ひどい目にあわない社会を作りたいです。
これは、甘い夢ですか。叶わない夢ですか。
世の中は、弱肉強食ですか。それに抗うのが分明なんじゃないの。

実際、世の中は、厳しいです。
自分を守るために、うばったり、騙したり、自分以下を作る人が沢山います。
時々、この世は闇なんじゃないかと思うこともあります。
でも、僕は夢見ます。
人の自信と可能性がうばわれない社会を作りたい。
優しい人が、ひどい目にあわない社会を作りたい。
それは、闇の中の、光だと思っています。
希望の光です。

恵那市に、「希望」という名前のパン屋さんがあります。
僕の仲間です。
このお店の小学生の娘さんが書いてくれた、僕の本の紹介文は、
きっと、学校でつらい思いをした経験のある人には、希望の光になると思います。

僕は、この娘さんの通う学校に、ロケット教室に行きたいなと思っています。
実現したい夢です。でも、僕1人では実現困難です。
夢は、しゃべったら叶います。だから書きました。
もしも、機会を作ってくださる方がいたら、うれしいです。

僕の漫画があるって知ってた?

広島県に、インフィニティという会社があります。
「感動コミック」という本を出版しています。
簡単に言うと、「生きてる人の伝記漫画」です。

僕も取り上げていただきました。
この漫画は、僕が読んでも、毎回泣いてしまいます。
漫画を書いてくれたひとも、漫画を作ってくれた人も、みんなの思いがこもっています。

でもこの漫画、発行部数が多くないために、
漫画のコミックとしては高価です。
そのためか、現在は流通在庫しか無い状態のようで、
Amazonでも尋常じゃない値段になっています。

で、インフィニティさんが、この漫画を重版する企画をしてくださっています。
このまま絶版だと、ちょっと寂しい。
この漫画が、多くの子ども達のもとに届いたらいいなと思います。

http://www.kokorozashi.co.jp/kancomi/vol7.html

7月17日月曜日 海の日は 赤平の植松電機に走るクラッシックカーが集まるイベントだよ。

きたる7月17日月曜日海の日 11時から15時くらいまで、
赤平の植松電機に、3回目の
クラッシックカーイベントがやってきます。
 
昨年は、日程がわかりにくかったり、
参加の車両が途中で道に迷ったりで、
なかなか難しいものがありましたが、
今回は、前回から改善されているそうです。
 
なんといっても、魅力は、「走る!」です。
古い素晴らしい車が、最高のエンジン音で、
目の前を走ります。
 
植松電機の敷地内に、プチ測定コースが設けられ、
タイム計測をします。
 
毎年来てくれているロータスヨーロッパのエンジン音は、
すごいです。
もちろん、他のレアな車も、生き生きとしています。
(ときどき、がんばりすぎて、いろんなものが漏れ出す車もいますが)
 
今回は、赤平で昼ご飯を食べるそうなので、
車の滞在時間も長いから、じっくり見られそう。
 
おそらく、前日に、赤平市の火祭りで花火大会があるはず。
そのまま、滝川あたりに宿泊して、翌日のクラッシックカーを楽しむってのもありかもしれませんよ。
 
ちなみに、昨年の様子として、
下記の記事を参照とさせていただきました。
 
当日の好天を祈りましょう!
 

子ども達を集めるのは難しい。でも、あきらめなくていい。

昨日は、八王子で講演させていただきました。
八王子は、何度も行ってるので油断してました。
電車が、立川をすぎたなあ・・・・そろろそかな、と思ったら、拝島でした。
なんと、行き先は2種類あったのね。
どうりで、ジョルダンの乗り換え案内が、ちがう電車を指示してくるわけだわ。
でも、拝島から八王子まですぐに行ける電車あったので大丈夫。

ちなみに、ジョルダンの乗り換え案内PLUSを使っていますが、
昨年くらいからか、異常に動作が遅くなりました。
念のため、無料のジョルダン乗り換え案内に切り替えたら、さくさくうごきます。
課金の意味ね−。

今日は、八王子でコーヒー店等を経営されている方が、機会を作ってくださいました。
彼は、子ども達に話を聞かせたい、と、子ども達を集めようとしていましたが、
なかなか思うようにならず、失敗しました・・・とがっかりしていました。
でも、会場には、お子さん連れの方が沢山来てくださってました。
もくろみよりも子どもの数が少なかったかも知れないけど、
それは失敗では無く、こうやったらこうなった、という貴重なデーターです。

日本中で、様々な団体が、子ども向けの事業をしようとします。
特に、青年会議所では、青少年育成事業で、中学生や高校生を集めたい!という事業計画をする委員長は少なくないです。とてもいいことです。
でもね、まー、普通にやったらあつまらないですね。
なんたって、小学校の高学年あたりから、習い事やクラブ活動が忙しいです。
中学生、高校生ともなると、部活で休日はがんじがらめです。
だから、どんなにいい社会との接点を作ろうにも、簡単には子ども達は参加できないです。
僕はこれは、大きな問題だと思っています。
(その点、ロータリークラブは、かなりがっちり子ども達を集めるので、見習うべきだと思います。)

子ども達は、下手したら、社会と関わらないまま大人になります。
大学生でバイトしなければ、社会と関わらないまま大人になります。
そのまま、先生になる人もいるんですよ。
時々、「先生は社会経験がなさ過ぎる!」なんて偉そうに言う人がいますが、
実はみんな社会経験がなさ過ぎです。
企業に入ったって、狭い社会経験しか出来無い人は沢山います。
僕は、中学や高校では、もっと社会に関わる機会を増やすべきだと思っています。
(1日や3日の職場体験は、体験でしかないです。職業経験をした方がいいと思います。)
(可能であれば、先生も一緒に職業経験をしてほしいです。)

今回の主催者さんは、最後に、来年、もっと多くの子ども達に話を聞いてほしい、と、
来てくれた方々にお願いしていました。
みんなうなずいてくれました。
みんなが力を合わせたら、一人では出来無いことができるようになります。
今回来てくれたある女性は、「どうしてもよびたかったです。でも、こうしてよんでくれた人がいたからあえました。」と涙ぐんでくれていたから、今回の主催の人は、失敗してないよ。
来年、また八王子に行けそうです。