植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

貧困の原因は、お金が無いから進学できないせい?じゃないよ。

昨日、NHKで、子どもの貧困の問題を取り上げていましたが、�
「みんなができていることができない」ことが、「かわいそう」という感じで表現されていたのは、ちょっと腑に落ちませんでした。
 
例として「お金が無くて部活をあきらめた」というのがあったけど、
もしも「部活をしない」ことが、将来の可能性にマイナスであるというなら、
そもそも部活をしてない人はけっこういるし、部活でひどい目にあって、部活をやめてしまった人は、マイナスになっちゃうの?
「お金が無くて、進学をあきらめた」も、マイナスだとしたら、そもそも進学しない人はダメですか?
なんとなく、「進学ありき」「進学にはお金がかかる」の価値観を押しつけられているような感じを受けてしまいました。
 
お金が無いから、進学できないから、貧困になる。
という表現は、正しくないと思います。
無理して進学したって、働けてない人がいます。そういう人は、学費や奨学金の返済もあって、さらに困窮しています。
社会人になってからだって、いくらでも学べます。
学歴があるかないかだけで、人生の価値が決定されるような表現は、「学歴を得ないとまずい」という不安を脅迫してしまいます。
 
番組の中でも触れていましたが「高学歴だと、能力が高くなるので、より多く稼げる」のだそうです。だったら、国として、国力を増やし、税収を増やしたければ、国民全員が高学歴を得られるようにすべきです。
日本の教育支援は不十分と言われますが、それは、今のところ、支援する学費と、その後得られる税収を天秤にかけて、税収が負けていると判断しているからかもしれません。
だったら、学歴の価値は、その程度です。(所得面にそれほど差が出ないってこと)
 
僕は、この貧困問題の根源は、もしかしたら、現在の教育では教育費に見合う能力が付与されていない、ことかもしれないなと思っています。
一時的に、補助や支援はとても大事ですが、根本的に、教育を見直す必要があると思います。
(思うから、いろいろ試してます。)

仕事って、なんだ?

僕は、仕事とは、人の役にたつこと、だと思っています。
でも、この話をすると、聞いてくれている学校の先生の中には、
あからさまにクビを左右に振る人がいます。
または、「それは理想論です。世の中そんなに甘くない」と教えてくれる人がいます。

では、こういう人達は、どんな考えで仕事をしているのでしょう?

仕事とは、喰っていくために、しょうがなくするもの?
喰っていくためなら、人の役にたたなくてもいいのかな?
喰っていくためなら、人に迷惑をかけてもいいのかな?

まあ、たしかに、そういう仕事も沢山あります。
わざと壊れるように作ることで、消費を維持し続けるケースもあります。
本当は、もっと長持ちするのに、わざと賞味期限を短くしているケースもあります。
混ぜ物などで、量を増やしてるケースもあります。
価値が無い物を、価値があるように見せかけて売るケースもあります。
人の不安をあおって、安心っぽいものを売りつけるケースもあります。

少子化が問題視されてから顕著なのが、高校の統廃合です。
だから、各高校、生き残りをかけて必死です。
生き残るための大きな条件は、生徒数です。そして生徒数を増やす条件は、「成果」です。
だから、無理矢理、進学率や就職率をあげる学校があります。
お前は成績がいいんだから、もっといい学校を狙えるはずだ!
おまえなら、医学部も行けるぞ!
生徒本人の意志など関係なく、いい学校への進学を強要するケースもあります。
その結果、進学後に、学校をやめてしまう子や、心を病んでしまう子もいます。
家にお金が無いのに、無理矢理進学させられて、お金が払えなくて、家庭がめちゃめちゃになってるケースもあります。

または、無理矢理、大会で優勝したがる学校があります。
優勝したいから、能力の低い子は、いくらそのスポーツを続けたくてもやめさせられたりします。また、無理した結果、体を壊してしまう子もいます。

これは、大人の食い扶持のために、子どもの人生を犠牲にしてるケースです。
これは、人の役にたつ仕事といえないと思います。

喰っていくためにはしょうがないからと、無茶なビジネスをする人のおかげで、
生きていくための支出が増えて、その支出を支払うために、他人に迷惑をかけてまでお金を稼いでるとしたら、それは悲劇以外の何物でもないです。

僕は、「喰っていくためにはしょうがない」という言葉は、とても危険な言葉だと思っています。これは、「自分のために、他人を犠牲にしてもかまわない」という意味になることがあります。
でも、自分だけよい、なんていう都合のいいことはないです。
自分がずるしてよくしようとしたら、自分もそのシステムに飲み込まれるだけです。

だから僕は、その逆をやっています。
僕は、壊れない製品を作る努力をしました。壊れてもすぐ直せるようにしました。
それは、結果的には、使ってくれるお客さんに喜ばれました。
だから、沢山の人に使ってもらえるようになり、喰えるようになりました。
でも、壊れないものは、行き渡ったらおしまいです。
だったら、なるべく売らないのがいいです。
だから僕らは、無理に売らないです。お客様の話をよく聞いて、最適な解を考えます。
その解が、植松電機のマグネットを使わない、というのもありです。素直にそう伝え、「他のお客さんは、こういう方法でやっていますよ。」と教えると、たいていのお客さんは驚きます。
「そんな商売の仕方でいいの?」と言われます。でも、結局これが信頼になります。
お客さんが、ちがうお客さんを紹介してくれたりします。
だから、結果的には売れます。

この状態にするためには、苦労しました。沢山の「使ってくれるお客さん」の声を聞きました。
そして、そういうお客さんを第一に考えてくれる「売ってくれる人」とおつきあいするようにしました。その結果が現在です。

時々、僕らが開発中に生み出した試作品や、実験で使ったもの、または、僕の私物を、オークションに出したら、かなりの金額になりますよ。とアドバイスしてくれる人がいます。
実際に、ある展示会で配布した僕のペーパークラフトに、オークションで結構な値段がつていたことがありました。(ひどいはなしですが)
でも僕は、そんなことをしてまでお金をほしいと思わないです。
僕らのことを大切に思ってくれる人の愛情は、大切にしたいです。

喰っていくためにはしょうがない、という考え方は、自分さえも他人に食い尽くされる考え方です。だからこそ、いかにして、適切な方法で喰えるようにするかです。
僕は、その方法こそが、「人の役にたつ」だと思っています。
世の中の、悲しいことや、不便なことや、困ったことを改善しようとしたら、
それは仕事になります。
僕は、ぶれないでがんばります。そして、それを、子ども達に伝えたいです。

10年後、仕事の半分がなくなる、ということが不安な人へ

僕は、石炭を掘る町に生まれました。
だから、永久に続く仕事はない、ということを知りました。
どんな仕事も、寿命があります。

僕が高校生の時には、「日本語タイプライター」の資格がありました。難しい資格でした。
でも、まもなく、「ワープロ」の資格になりました。まだ、液晶が2行とか3行しか表示できない時代です。その資格も、結構大変な資格でした。
でも、ワープロって、いま見かけなくなりましたね。日本語タイプライターに至っては、博物館でしかみられないかも。
資格は、永久に仕事を保障するものではありません。

当時は、写真の30分プリント、が一気に成長した時代でした。
そこら中にDPEショップができて、1千万円ほどもする装置をどんどん導入していました。
でも、そのブームは、デジタルカメラと、インクジェットプリンターの普及によって、
ほんの15年ほどで急激に縮小していきました。

僕は、歴史が好きだから、歴史上、そんなことは沢山あったことを知っています。
そもそも、明治維新では、「侍」という、今で言う公務員が、仕事を失っています。
第二次世界大戦後にも、大きな価値観変化が起きています。

だから僕は、最近よく目にする、「10年後には今の仕事の60%がなくなる」というニュースを見ても、「まあ、そうだろうな。」としか思わないです。

でも、最近、意外なことに、かなり多くの人が、「なくなる仕事リスト」に自分が取得しようとしている資格や、なりたい職業を見つけて、絶望してることを知りました。
「せっかく資格を取っても、ムダになるんだ」と嘆いています。
でも、そう思う人に、だいたい共通しているのは、「まだ働いていない」です。
働いている人達は「まあ、そうだろうな。」と思ってる人が多いようです。
なぜなら、実際に働いてみたら、「資格」が自分の仕事を保障しないことも、
「就職」も自分の人生を保障しないことも、知ることができるからです。

残念ながら、学校で、「資格」や「就職」の価値を強調しすぎた場合、子ども達は、資格や就職に、過度に依存してしまうかもしれません。
そして、その反動で、資格や就職が価値を失ったとき、絶望するのかもしれません。

でも、実際には、資格さえあれば、どんな人間でも働けます、なんて職場は少ないです。
だいたい、資格があったって、その能力はピンキリです。だから、能力の高い人が優先的に雇用されます。

時々、有名芸能事務所に雇用されたら、有名タレントになれる、と思い込んでる人もいますが、
そんなわけないですね。芸能の仕事は、まさに自営業。商品は自分です。自分の努力が成果に直結します。
ちなみに、この場合の努力とは、きっと、「指示されたことを指示通りに、素直にまじめにやればいいんでしょ?」では、ないような気がします。

同じ事を繰り返したら、性能は高くなります。そりゃそうだ。慣れるし、覚えるし、体が反射的に動くようになります。それは、「習熟」という状態だと思います。
学校では、この「習熟」が評価に直結してることが多い気がします。

でも、実際には、社会は変化しているので同じ事が永遠に続かないことが多いです。
その、変化に適応しなければいけないときに、「今まで自分がやってきた習熟」に固執すると、変化に適応できなくなります。

社会の変化に対して、「自分はこれしかやってこなかった。これしかできない。いままで費やしてきた時間を無にできない。いまさら新しい仕事なんて・・・」と言ってしまう人を何人も見てきましたが、社会は容赦なく変化します。

栄枯盛衰です。おごれる者久しからずです。800年前から言われてるじゃない。
大事なのは、変化は当たり前だから、変化に適応することです。

絶望してるヒマも、凹むヒマも、時間の使い方としてはむだです。
自分なんて・・・もうダメだ・・・と思うのも、思考停止でしかありません。
喰えなくなっちゃってからでは、次の手を考えても、行動できない可能性が高いから、
喰えてるうちに、次の手を考えておくべきです。

来たるべき自動化の波に適応する最良の方法は、真っ先に、いま自分のやってる仕事を、
どうやったら自動化できるかを考えることです。
そうすれば、自動化しにくい部分や、自動化してもなお必要な部分が見えてきます。
場合によっては、それを自動化することを仕事にできるかもしれません。
僕は、会社の仲間には、「自分のやってる仕事の中で、単純な繰り返しや、やっても修練にならないことは、どんどん自動化や外部委託していいからね。そうやって生み出した時間で、やったことがないことをやっていこう。」と言っています。
この考え方で、できることを増やしてきました。

どんな不安も、不安がっているだけでは、その不安は現実になります。
不安は、なぜ不安なのかを考えて、対策すれば、不安ではなくなります。
時代の変化は不安かもしれないけど、思考することで、不安じゃなくなります。
ぜひ、「なんで不安に思うのか?」を考えてみてほしいです。













「成功した人のしゃべるきれいごと」という思考の原因

僕は、「どーせ無理」という言葉に負けないためには、「だったらこうしてみたら」だよ。
と伝えています。でも、僕のそういう考え方は、ときどき、
「そんなのは、所詮成功した人間のしゃべるきれい事だ。」と言われることがあります。
 
さて。
まず最初に、「成功」について考えてみたいと思います。
 
そもそも、「成功」とは、どのような状態でしょうか?
多くの人は、大金持ちとかはのぞんでいないと思います。
「自分の思うようにできる」状態を、成功した状態、と思ってる人が多いように感じます。
そう思うからには、「自分の思うようにならない」状態にある人が多いという事だと思います。
そりゃそうです。世の中は、そうそう簡単には、自分の思うようにはなりません。
 
自分の思うようにならないことを、自分の思うようにするには、どうしたらいいのか?
たとえば、お店の売り上げを増やしたいけど、増えない、という状態があったとします。
それを、いくら悔やんでもぼやいても、なにかのせいにしても、現状は変わりません。
僕だったら、なぜ増えないのか考えるでしょう。その原因を、排除する努力をします。
同時に、収支を考えます。収入を増やすのと、支出を減らすのは同じだからです。
可能な限り、支出を減らすでしょう。
また、売り上げだけ増えても、利益率が低下したら、忙しいだけで儲からなくなるし、
万が一、利幅が低い状態で売り上げが減少したら、在庫と、入金と支払いのタイムラグの関係から、あっという間に資金ショートします。だから、利益率を改善する努力もするでしょう。
 
ということを、僕はやってきただけです。
だから僕は、自分が成功したとは、まったく思っていません。
思うようにならないから、思うようになるように、考えて行動してるだけです。
イメージとしては、ノルマンディーの海岸で、ばんばん敵に討たれてる中、頭をかがめて、走り回ってる感じかな。
 
残念ながら、「思うようにならない」状態を、愚痴りぼやくだけで、何もしない人は、
そうじゃない人を、「成功した人間」と思うのかもしれません。
 
ではなぜ、「何もしない」のか。
それは、問題を解決する方法を知らないからです。
学校では、問題の解き方は教えます。でも、問題の解決の仕方はあまり教えません。
むしろ、悪いケースを教えてしまうことが多いです。
たとえば、人間関係で、いじめなどの問題があったとき、
勇気を出して先生に相談してみたら、なんだかあわただしくなって、雰囲気が悪くなって、
気がついたら、「いろいろと複雑な問題だから・・・・」とか言われて、結局なんにも変わっていない。というケースを経験した人は、「大人に相談しても、適当にごまかされるだけなんだ・・・」と学習します。
または、悩み事を相談してみたら、
「そんなの気にするな」「なんでそんなのと関わったの?」「もうすぐ卒業だからがまんしな」なんて言われたら、
「ああ、自分の悩み事は、自分のせいなのか。自分が気にするから、がまんできないからダメなのか・・・」を学習してしまいます。
要するに、問題を解決できない大人は、子ども達の問題解決能力をうばうのです。
 
ではつぎに、「きれいごと」について考えてみたいと思います。
「きれいごと」ってなんでしょう?
「論理的にはわからんでもないけど、現実にはできもしないこと」かな?
さて、「現実にはできもしない」の定義は?
現実とは、どの範囲?自分の知ってる範囲じゃない?
そして、できそうかできなさそうかは、自分の経験の範囲で判断してるだけでは?
また、いままでやったことがないからできない、と思う人もいるかもしれないですね。
でも、やったことがなければ、やってみればできるようになるはずですが、
やってみないと、できる範囲も広がりません。
ということは、経験値が乏しく、関わる世界が狭く、やったことがないことをやりたがらない人にとっては、「現実にはできもしない」は、すごく包括する範囲が大きくなってしまうでしょう。
時々、ロケット教室の会場でも、子どもがロケットを作ろうと頑張ってるときに、
「あー。ちがうちがう、何やってんの!ちゃんと説明書読みなさい!」
「勝手なコトしないで、先生に聞きなさい!」
あげくは「ちがうちがう、こうだろ? なんでこんなこともできないの?」なんて言い出す人も。
こういう人達は、子ども達の思考も、経験も行動も制限してしまいます。
そんなことでは、「どうやったらできるか考える」にはならないでしょう。
その結果「きれいごと」にしか思えないことが増えていきます。
 
どうやら、「所詮成功した人間のしゃべるきれいごと」と思う人は、
「問題にであったときに、解決する方法を考えられない」人のような気がします。
 
「自分1人ががんばったって、どーせ変わるわけがない。どーせできるわけがない。
それが現実だ。」
で、問題を解決する方法を考えるのをやめてしまった人にとっては、
現実社会は、とても生きにくいと思います。
生きにくいから、なおさらに、まわりを恨んだり、呪ったりしてしまうかも。
そのままだと、まわりに絶望をまき散らす存在になってしまうかも。
 
だからこそ、「だったらこうしてみたら?」です。
問題を分析し、解決策を考え、行動する。
これができる人が増えたら、「きれいごと」なんて概念はなくなるかもしれません。

恵那市の小学校にロケット教室に行きたいよ。

岐阜県恵那市に、素敵なパン屋さんがあります。
パン屋さんの名前は「ボネロ」です。
フランス語の「希望」です。

このお店は、いま、新しいことにどんどんチャレンジしています。
そのチャレンジの一つとして、お店に、本の紹介コーナーを作ったそうです。
そこに取り上げていただけたのは、僕の本。
このお店の、小学生の娘さんの手書きの本の紹介文がついています。
この紹介文を読んで、僕は泣いてしまいました。

僕は、人の自信と可能性がうばわれない社会を作りたいです。
優しい人が、ひどい目にあわない社会を作りたいです。
これは、甘い夢ですか。叶わない夢ですか。
世の中は、弱肉強食ですか。それに抗うのが分明なんじゃないの。

実際、世の中は、厳しいです。
自分を守るために、うばったり、騙したり、自分以下を作る人が沢山います。
時々、この世は闇なんじゃないかと思うこともあります。
でも、僕は夢見ます。
人の自信と可能性がうばわれない社会を作りたい。
優しい人が、ひどい目にあわない社会を作りたい。
それは、闇の中の、光だと思っています。
希望の光です。

恵那市に、「希望」という名前のパン屋さんがあります。
僕の仲間です。
このお店の小学生の娘さんが書いてくれた、僕の本の紹介文は、
きっと、学校でつらい思いをした経験のある人には、希望の光になると思います。

僕は、この娘さんの通う学校に、ロケット教室に行きたいなと思っています。
実現したい夢です。でも、僕1人では実現困難です。
夢は、しゃべったら叶います。だから書きました。
もしも、機会を作ってくださる方がいたら、うれしいです。

僕の漫画があるって知ってた?

広島県に、インフィニティという会社があります。
「感動コミック」という本を出版しています。
簡単に言うと、「生きてる人の伝記漫画」です。

僕も取り上げていただきました。
この漫画は、僕が読んでも、毎回泣いてしまいます。
漫画を書いてくれたひとも、漫画を作ってくれた人も、みんなの思いがこもっています。

でもこの漫画、発行部数が多くないために、
漫画のコミックとしては高価です。
そのためか、現在は流通在庫しか無い状態のようで、
Amazonでも尋常じゃない値段になっています。

で、インフィニティさんが、この漫画を重版する企画をしてくださっています。
このまま絶版だと、ちょっと寂しい。
この漫画が、多くの子ども達のもとに届いたらいいなと思います。

http://www.kokorozashi.co.jp/kancomi/vol7.html

7月17日月曜日 海の日は 赤平の植松電機に走るクラッシックカーが集まるイベントだよ。

きたる7月17日月曜日海の日 11時から15時くらいまで、
赤平の植松電機に、3回目の
クラッシックカーイベントがやってきます。
 
昨年は、日程がわかりにくかったり、
参加の車両が途中で道に迷ったりで、
なかなか難しいものがありましたが、
今回は、前回から改善されているそうです。
 
なんといっても、魅力は、「走る!」です。
古い素晴らしい車が、最高のエンジン音で、
目の前を走ります。
 
植松電機の敷地内に、プチ測定コースが設けられ、
タイム計測をします。
 
毎年来てくれているロータスヨーロッパのエンジン音は、
すごいです。
もちろん、他のレアな車も、生き生きとしています。
(ときどき、がんばりすぎて、いろんなものが漏れ出す車もいますが)
 
今回は、赤平で昼ご飯を食べるそうなので、
車の滞在時間も長いから、じっくり見られそう。
 
おそらく、前日に、赤平市の火祭りで花火大会があるはず。
そのまま、滝川あたりに宿泊して、翌日のクラッシックカーを楽しむってのもありかもしれませんよ。
 
ちなみに、昨年の様子として、
下記の記事を参照とさせていただきました。
 
当日の好天を祈りましょう!