「ましろ日」という漫画はいい!
高校生は忙しすぎる。それは、現実を見ない大人が原因かも。
植松電機がロケット打ち上げをビジネスにしない理由
どうでもいいことだけど、と、テレビ放送の件。
最優先すべきは命です。
時々、スポーツのシーンで、「死ぬ気でやれ!」というセリフに出会います。
このセリフを、学校の先生も使うことがあるのが、とても怖いです。
叱咤激励のつもりなのでしょうが、「死」は、軽々しく使うべきじゃない言葉だと思います。
「死は鴻毛より軽しと心得よ」という言葉がありました。
明治の初期に書かれた軍人勅諭のなかの一言です。
これも、「死ね」といってるのではなく、叱咤激励、覚悟のすすめだと思います。
でも、この言葉は、拡大解釈され、「生きて虜囚の辱めを受けず」にまでつながったのだろうと、
僕は思っています。しかもそれは、軍人だけではなく、一般人にまで適用され、
大勢が自ら命を絶つことになります。
歴史上、背水の陣で、勝った人はほとんどいません。
というか、退路を断つ、というのは、攻撃側のセオリーです。
退路を断たれた方は、窮鼠猫を噛むで、いつも以上の力を発揮できる・・・わけないですね。
残念ながら、僕らはサイヤ人ではないので、追い込まれても、スーパーサイヤ人にはならないです。僕らは、暴走モードにも、ビーストモードにもならないしね。
督戦隊という部隊がありました。突撃を命じられた兵士が、びびって逃げ出さないように、
逃げた味方兵士を後ろから撃つという、めちゃくちゃなやり方です。
(ジュード・ロウさん主演の映画、スターリングラードの冒頭シーンで描かれています。)
これもまた、背水の陣的考え方です。後戻りは許されない。死ぬ気で行け!です。
ま、たいてい、全滅します。
僕は、ラッキーなことに、小学校1年生の時に、宇宙戦艦ヤマトの、沖田艦長から、
「明日のために、今日の屈辱に耐えるのだ!」という言葉を教わりました。
おかげで僕は、どんなにつらくても悔しくても、投げ出さないですんでいます。
ぐっとこらえて、いつかかたきを取るのです。
沖田艦長は、敵うはずもない強敵を前にして、「死ぬ気で戦え!」と言いませんでした。
「生き延びろ」と言ってくれました。
それが、僕の力になりました。
だから、僕も、「死ぬ気で行け!」なんて命じないです。
僕は朝礼で、「みんなの命が一番大事だから、運転に気をつけて。もしも寝坊してしまっても、遅刻を恐れてスピードを出さないで。」と話します。それでいいと思っています。
大事なのは、命です。
自分が主体者じゃないと夢はかなわない。
夢をかなえるために、最も重要なのは、自分が主体者になることです。
どういうことかというと、
たとえば、「お金が欲しい」と思ったとします。
これは、かなりかなうのが難しいですね。
なぜなら、主体者が自分ではないからです。
「してもおらおう」「させてもらおう」というのは、他力への依存度が高すぎます。
これでは、自由はありません。
たとえば、「お金を効率的に稼ぎたい」だと、かなう可能性は増えますね。
なぜなら、自分の主体性が増えているからです。
いろんなアイデアを試せます。
時間あたりの収入を増やすのか、労働力あたりの収入を増やすのか、
いろんなことが考えられますが、考えられるからこそ、主体性は自分にあります。
でも、「お金を効率的に稼げる会社に雇われたい」だと、一気に遠のきます。
なぜなら「雇ってほしい」は、主体が自分ではないからです。
でも、僕ならそもそも、「お金が欲しいなあ」と思ったら、
「なぜお金が必要なのか」を考えます。
そして、「お金をかけないですむ方法」を考えます。
なぜなら、お金というものは、労働力を現金に変換しています。
その、変換されたあとの現金を、誰かの労働力にまた変換します。
それを、何度か繰り返すので、効率があまりよくないです。
自分でできる、が、最も効率的で、主体的です。自由です。
だから僕は、お金よりも、能力がほしいです。
夢がかなわない、と悩んでいる人の中には、
「してもらおう」の夢の人が多いかもしれません。
「する」夢なら、前進できます。
ちょっとでもいいから、「する」の割合を増やすように考えてみたらいいかもしれません。
人を値踏みするのは、世界を小さくする行為。
今から、16年ほど昔、マグネットの仕事を必死でやってる時代の僕は、人と出会うと、「この人は僕にとって、どんなメリットがあるかな?」「この人は、どう利用できるかな?」と考えていました。
僕の基準で、僕にとって役にたつかどうかの値踏みをしていました。
そして、役にたたないと思ったら、関わりませんでした。
僕はそれを、合理、だと思っていました。
でもこれは、とてもさもしい考え方だったと思います。
僕は、やがて、児童虐待を無くしたいと思うようになります。
その頃に、永田先生に出会えました。
そのとき、僕は、「この永田先生のロケットエンジンが実用化できたら、きっと、宇宙は手の届かない場所じゃなくなる。いままでは、宇宙は、不可能の象徴だったかも知れないけど、このエンジンがあれば、夢をあきらめない象徴になるかも。これは奇跡のエンジンだ。」と思いました。
そのとき、僕は、永田先生のカムイロケットエンジンを、自分ならどう支えられるのかを考えました。
そのときから、人の出会いが変化しました。
僕は、沢山の素晴らしい人と関われるようになりました。
というか、それまでも、そういうチャンスはあったのだと思います。
でも僕が、それを値踏みして台無しにしていただけです。
他人を値踏みすると言うことは、この素晴らしい世界を、自分の理解の範囲内に閉じ込めてしまう行為でした。
僕は、中学生の頃に、アドルフ・ヒトラーさんの「わが闘争」を読みました。
その本の中で彼は「価値のない命」という表現を使っていました。
でも、その「価値」とは、彼の判断です。
誰かを、「こいつらは、役にたたない。無価値だ。」と決めつけるのは、
僕がやっていたことと同じだった気がします。
でもそれを、現在もやってる人は少なくないです。他人に対しても、自分に対しても。
人間ほどわけわからんものはないです。
だからこそ、奇跡が沢山隠れていると思います。
だから、人と出会ったときは、「どう利用できるかな?」ではなく、
「どうやったらもっとよくなるかな。」を考えたらいいと思います。
それは、きっと、奇跡を連鎖的に生み出します。
そういう経験をしたことがある人は、きっとうなずいてると思います。
そういうのって、ありですよ。
だまされたと思って、人の見方をちょっと変えてみたらいいんじゃないかなと思います。