すべきは、教育の先送りではなく、前倒し。
個々人は尊重されるべきだけど、「俺を尊重しろ!」とは思わない方がいい。
いま、民主主義の勉強をしています。
なぜなら、いい会社を作りたいからです。
そこで、民主主義の歴史を調べています。
さかのぼること、ギリシア時代です。
その時代は、基本的に王様による独裁が主でした。
スパルタや、ペルシャなどの強大な国家がありました。
でも、民主主義は、独裁よりも強くなれる可能性があります。
なぜなら、より多くの情報を元に判断できるからです。
民主主義の大事な所は、少数意見の尊重です。
それはすなわち、個々人の尊重につながります。
でも、そこからが問題です。
自分を尊重しろ!という人が現れると、民主主義はくずれていきます。
自分を尊重しろ!には、大別して2種類あります。
(1)俺は優れているから、尊重しろ!
(2)俺は弱いから、尊重しろ!
いずれにせよ、こういう主張は、他者を尊重していない主張です。
ですから、個々人の尊重が守られなくなり。民主主義は不成立になります。
尊重とは、すべきものであって、自分を尊重するよう要求するものではないと思います。
でも、けっこう身近で目にするのは、
「年長者を敬え」「先輩を敬え」「後輩のくせに生意気だぞ」「若造のくせに」
という言葉です。
これは、他人を尊重しない人が使う言葉です。民主主義の敵です。
だから僕は、年齢に関係なく、尊重する努力をします。
子どもにも、大人と同じように接します。
普段から練習しないと、いざというときできないからね。
恐怖と苦痛と侮辱という罰は与えてはいけないと思う。
「天誅」という言葉があります。
幕末のドラマなどで、よくつかわれてる気がします。
でも、「天誅!」と叫びながら、人斬ってんのは人間だよなあ。
それって、天誅なのかなあ。
僕は子どもの頃、いろんな大人から罰を与えられました。
特に、小学校の先生からは、酷い罰を与えられました。
その罰は、恐怖と苦痛と侮辱でした。
僕は、忘れ物が多かったです。だからいつも怒られます。
それでも忘れるから、怒られるのはエスカレートします。殴られます。でも忘れます。
やがて、担任の先生が替わりました。
その先生は、「忘れ物をしないためにはどうしたらいいかな?」と考えてくれました。
そして、僕にチェックリストというものを教えてくれました。
それだけで僕は、忘れ物をしなくなりました。
あんだけ、怒鳴られて、侮辱されて、殴られていたのが、バカみたいです。
生徒は嘘をいうこともあります。本当の事を言えないこともあります。
だから時には、先生の間違った状況認識に基づいて怒られることもありました。
あとから間違いに気がついても、先生は謝りませんでした。
いま、僕は、人は人に罰を与えるべきでは無いと思っています。
特に、恐怖と苦痛と侮辱という罰は、使ってはならないと思います。
なぜなら、人は間違いを犯すからです。
間違った判断に基づいて罰を与える可能性があるのは危険です。
昔から、正義は難しいと思われていたと思います。
古くから、正義の象徴は「天秤」です。バランスです。
そのバランスを完璧にとれるのが、正義なのだと思います。
でも、人間は、残念ながら、そのバランスを完璧にとるのは難しいです。
だから、裁判には、多くの人手をかけます。大勢が判断することで、
平均化を図るのだと思います。
すなわち、個々人の判断に基づく罰は、もっとも危険ということです。
ネット上で、不愉快で、納得できない意見を見つけたから、みんなのために攻撃する。
クラスで、授業の進捗の妨げになってる「とろい奴」を、みんなのために攻撃する。
職場で、ミスばかりしてる人を、みんなのために攻撃する。
これは、みんなのため、といっていますが、そのみんなとは、たいていの場合、
とても狭い範囲の人達です。下手したら自分だけです。
自分だけの思考を、さも大勢の大義であるかのように表現するのは、
「ロイヤルウィー」とよばれますが、
「みんなのため」という大義名分があるときの罰は容赦ないです。
時には、みんなの反応で盛り上がったり、英雄的な行動のアピールとして、
増長する傾向もあります。
そこにはもう、正義はないと思います。
この状態を改善するのは、容易です。
罰を与えなければいいだけです。
問題があると判断したら、問題を起こす人をつぶすのではなく、
問題を改善する為に、まずは、管理できる人間に相談すべきです。
それだけで、たとえば、ネットに於ける「炎上」という現象はおきなくなると思います。
でも、学校の担任の先生に相談しても、その人が解決できないこともあります。
ときには、先生自身が私的制裁の原因だったりすることもあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
でも、教育委員会もなにもしてくれないこともあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
だいじなことは、絶望しない(あきらめない)ことです。
自分の目の前の狭い世界だけがすべてではありません。世界は広いです。
もちろん、「罰」と、「損害の補償」を一緒に考えてはいけません。
時々「損害の補償」に「罰」が盛り込まれることがありますが、
それは、たいていの場合、ろくな結果にならないです。
(第一次大戦後に、連合国がドイツに課した制裁的保障金を思い出すといいです。)
人は、正義にはなれません。
だから、人は、人に、罰を与えてはいけないと思います。
罰ではなく、問題の解決と、再発の防止を考えるべきです。
安易に罰を与えると、もしかしたら、巡り巡って社会の秩序が崩れるかもしれません。
だから、教育や指導に関わる人は、「罰」について、深く考えた方がいいと思います。
恐怖や苦痛や侮辱によって学習させようとするのは、文明的ではないと思います。
アルファードに代わる次世代車両を選定しないといけない。
「何でこんなこともできないんだ!」に負けないで。
「反省しろ!」の無意味さ。
先日、取引先の方があやまりに来られました。
なんでも、欠品があったそうな。
ま、人間、ミスするものです。多少の欠品で本業の製品出荷などに致命的な影響が出るような
ギリギリの入荷手配はしていませんので、事なきを得た件でした。
で、その会社の方にいわれたのは、
「植松電機さんは優しすぎる。もっときつく怒ってください。」でした。
僕としては、失敗は怒る必要は無く、再発を防止する手立てができれば問題なしと思っています。
なんせ、さんざん怒られてきましたから。
だから、怒るということの無意味さを知っています。
少し前までは、仕事などでトラブルが起きたら、
「とりあえず担当者ワビを入れろ!」という経営者が多かったです。
修理とかいいから、まず土下座しろ!です。
で、たいていの人が、怒られたら、平身低頭謝ります。
で、土下座しながら舌だしてます。てへぺろです。
怒られるから、相手に合わせて対応しているだけです。
子どもの頃もそうでした。
問題が起きたとき、先生に呼び出され、犯人は並べられます。
先生から怒られて、いろんな事言われます。有罪を認めろ!といわれます。
僕はそのとき、そうなった理由を説明します。悪気がなかったことを説明します。
すると、「くちごたえするな!」といわれます。
他の子達は、先生の理解が間違っていても、みんな素直に泣いてあやまります。
「ごめんなさい。もうしません。」と泣きながらいいます。
すると、「わかればよろしい。もうするなよ!」と、すぐに解放されます。
僕は、正しく認識してほしいと思って説明します。
だから僕は、さらに怒られます。
後から、その子達にいわれます。「お前バカだな。あいつは単純だから、泣いたまねしたらすぐに解放してくれるんだぞ。」
でも僕は、解放されたいのではないのです。
事実を正しく認識してほしかったのです。
僕は、いろんなことで失敗をしたり、されたりします。
都度、なんでかな?と考えて、だったらこうしてみたら?と、再発防止を考えます。次の手を考えます。
たとえば、以前、ある会社に「沢山売るから独占契約を結んでくれ」といわれて、その通りにして、沢山来る注文に対応するために工場を建てて、人を雇って、まもなく、「経営方針が変わったからもういりません」といわれて、工場建設の借金を返すあてを失ったことがありました。僕はそれを、自分の判断ミスが招いた状態だと反省しました。
だから今では、ある特定の会社の売り上げが、全体の売り上げの30%を越えないように気を付けています。
なぜなら、沢山買ってくれる会社はありがたいのですが、その会社の売り上げが自社の生命線になってしまったとたんに、自由を失うことを学習したからです。
だって、生命線を握られてるんですよ。
来月の注文をしません、ていわれたら、「え、ちょっとまって、それは困ります」になります。そうしたらもう手遅れです。相手の意のままに、値段交渉をされるようになるでしょう。
僕は、自分の判断ミスを反省しました。
でもこれは、自分のせいにする、のとはちがいます。
「自分のせい」にして、自分を責めるだけだと、思考が停止します。
そうじゃなくて、問題を問題だと認識して、発生原因を考え、自分ならこうする、という、再発を防止する対策を考え、行動するのです。
僕は、反省しろ!といわれてする反省は、反省のポーズだと思います。猿でもできます。
本当の反省は、自分で考えるしかないと思います。
だから、重要なのは、「反省しろ!」ではなく、
どうやったら、「本当の反省」をする能力が身に付くのかな?を考えることだと思います。
すなわち、問題解決能力をいかにして育むか、を考えるのです。
おそらく、本当の反省ができる人は、様々なことから学習し、自分の人生に活かせます。
そういう人のみ、「反面教師」が成立します。
他人の問題行動から、自分のすべき道を見いだす、です。
だから、「自分はわざと憎まれ役の反面教師をやってるんだ」なんてのは、ナンセンスです。
反面教師は、こちらから提供するサービスではありません。
それは「反省しろ!」を提供してるのと同じです。
反省は、させてできるものではないです。本人がするものです。
そして大事なのは、本当の反省ができる人を育てることです。
そのために、最も重要なのは、思考力です。主体性です。
それが、本当の反省につながります。
反省の強要は、思考能力と主体性を奪います。それは、どんどん悪循環すると思います。
僕は、大学にいって、驚いたことがあります。
それは、教授達が、生徒に向かって、「お前ら」といわないことです。「諸君」といいました。
僕らを、対等な大人として扱ってくれました。そして、思考の重要性を説きました。
僕はそれが、とてもうれしかったのをおぼえています。
だから僕は、子ども達に、「お前ら」といいません。僕の会社の仲間にもいいません。
そして、上から目線で反省を強要しません。僕は、再発防止を相談します。
だから、僕の会社の仲間は、問題を乗り越えて、前に進んでくれるのだと思います。
でもいまでも、「お前ら!反省しろ!」は、まかり通っています。
その無意味さと悪影響に、気がついてくれる人が増えたらいいなと思います。