植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

すべきは、教育の先送りではなく、前倒し。

縄文時代も、江戸時代も、明治時代も、現代も、
「おぎゃー」って生まれてくる赤ちゃんは、同じ物体です。
何も知らないで生まれてきます。
 
でも、あきらかに、時代とともに、生きていくために学ばなければいけないことが
どんどん増えています。�でも、人間の寿命はそんなには延びません。では、どうすべきか?
 
すべきことは、教育の「前倒し」だと思います。
 
でも、実際に行われているのは、教育の「先送り」のように見えます。
 
大学では、高校のおさらいをしなければいけない。
企業は、極初歩的な人間として必要なマナーや常識を教えなければいけない。
これは、ものすごいロスのような気がします。
これでは、どんどん進化していく時代に対応出来ないのじゃないかと思います。
実際、それは問題として表面化しています。
有効求人倍率が増え続けているのは、景気がいいからではなく、
いつまでたってもまともな人材が充足しないからです。
 
その最大の原因は、おそらく、現在の受験を軸とした教育システムです。
でもそれが、いま変わろうとしています。それはとてもいいことだと思いますが、変わるのを拒む人達もいます。
 
自分の会社に入ってくる新入社員が、様々な問題を抱えているのかを知ってるはずなのに、自分の子どもには同じ教育を押しつける。
自分の会社でも、自動化がどんどん進んで、素直とまじめと勤勉はロボットの仕事になったことを知ってるくせに、子どもには素直とまじめと勤勉を要求する。
これは、矛盾に満ちています。
 
なぜこんな矛盾が生じるのか?
それは、僕ら大人が受けた教育や進路指導が、現在のニーズとはかけ離れているからです。
今の40代、50代が中学生高校生だった頃には、ロボットはほとんどいませんでした。
インターネットも、ほぼありません。というか、ウィンドゥズがない。
だから、事務作業なども、とてつもなく単純なことを手作業でやっていました。
僕がつとめていた航空宇宙関係の仕事でも、MT(磁気テープ)が現役でしたから。�そんな時代には、それこそ、素直でまじめで勤勉な人間が求められました。
でも、もう、時代は変化したのです。
 
いま、大人は、自分の受験や教育や進路指導に関する常識を捨てるべきだと思います。
これからの時代に、どんな人材が必要とされているのかを、真剣に考えるべきです。
そして、教育を前倒しする方法を考えるのです。
そうしないと、社会は衰退しかしないと思います。
 
政府が発表する、経済成長の数字を、「ほんまかいな」と思ってる人は少なくないでしょう。
景気が悪くなってる感じを受けてる人は多いでしょう。
いままでと同じことをやり続けたら、それはもっと悪化すると思ったらいいです。��でもここで、このまずい状態を、「誰か何とかして」と思ったら、
そこから「独裁」がはじまります。最近、そんな雰囲気するでしょう?
 
思考と人生を誰かにゆだねないで、自分で考えるのです。�それをする人が増えないと、この景気の閉塞感は、まだまだ厳しくなると思います。
�自分で、「自分ならこうするなあ」と考えるのです。

個々人は尊重されるべきだけど、「俺を尊重しろ!」とは思わない方がいい。

いま、民主主義の勉強をしています。
なぜなら、いい会社を作りたいからです。

そこで、民主主義の歴史を調べています。
さかのぼること、ギリシア時代です。

その時代は、基本的に王様による独裁が主でした。
スパルタや、ペルシャなどの強大な国家がありました。
でも、民主主義は、独裁よりも強くなれる可能性があります。
なぜなら、より多くの情報を元に判断できるからです。

民主主義の大事な所は、少数意見の尊重です。
それはすなわち、個々人の尊重につながります。
でも、そこからが問題です。

自分を尊重しろ!という人が現れると、民主主義はくずれていきます。

自分を尊重しろ!には、大別して2種類あります。
(1)俺は優れているから、尊重しろ!
(2)俺は弱いから、尊重しろ!

いずれにせよ、こういう主張は、他者を尊重していない主張です。
ですから、個々人の尊重が守られなくなり。民主主義は不成立になります。

尊重とは、すべきものであって、自分を尊重するよう要求するものではないと思います。
でも、けっこう身近で目にするのは、
「年長者を敬え」「先輩を敬え」「後輩のくせに生意気だぞ」「若造のくせに」
という言葉です。
これは、他人を尊重しない人が使う言葉です。民主主義の敵です。

だから僕は、年齢に関係なく、尊重する努力をします。
子どもにも、大人と同じように接します。
普段から練習しないと、いざというときできないからね。

恐怖と苦痛と侮辱という罰は与えてはいけないと思う。

天誅」という言葉があります。
幕末のドラマなどで、よくつかわれてる気がします。
でも、「天誅!」と叫びながら、人斬ってんのは人間だよなあ。
それって、天誅なのかなあ。

僕は子どもの頃、いろんな大人から罰を与えられました。
特に、小学校の先生からは、酷い罰を与えられました。
その罰は、恐怖と苦痛と侮辱でした。

僕は、忘れ物が多かったです。だからいつも怒られます。
それでも忘れるから、怒られるのはエスカレートします。殴られます。でも忘れます。
やがて、担任の先生が替わりました。
その先生は、「忘れ物をしないためにはどうしたらいいかな?」と考えてくれました。
そして、僕にチェックリストというものを教えてくれました。
それだけで僕は、忘れ物をしなくなりました。
あんだけ、怒鳴られて、侮辱されて、殴られていたのが、バカみたいです。

生徒は嘘をいうこともあります。本当の事を言えないこともあります。
だから時には、先生の間違った状況認識に基づいて怒られることもありました。
あとから間違いに気がついても、先生は謝りませんでした。

いま、僕は、人は人に罰を与えるべきでは無いと思っています。
特に、恐怖と苦痛と侮辱という罰は、使ってはならないと思います。
なぜなら、人は間違いを犯すからです。
間違った判断に基づいて罰を与える可能性があるのは危険です。

昔から、正義は難しいと思われていたと思います。
古くから、正義の象徴は「天秤」です。バランスです。
そのバランスを完璧にとれるのが、正義なのだと思います。
でも、人間は、残念ながら、そのバランスを完璧にとるのは難しいです。
だから、裁判には、多くの人手をかけます。大勢が判断することで、
平均化を図るのだと思います。

すなわち、個々人の判断に基づく罰は、もっとも危険ということです。
ネット上で、不愉快で、納得できない意見を見つけたから、みんなのために攻撃する。
クラスで、授業の進捗の妨げになってる「とろい奴」を、みんなのために攻撃する。
職場で、ミスばかりしてる人を、みんなのために攻撃する。
これは、みんなのため、といっていますが、そのみんなとは、たいていの場合、
とても狭い範囲の人達です。下手したら自分だけです。
自分だけの思考を、さも大勢の大義であるかのように表現するのは、
「ロイヤルウィー」とよばれますが、
「みんなのため」という大義名分があるときの罰は容赦ないです。
時には、みんなの反応で盛り上がったり、英雄的な行動のアピールとして、
増長する傾向もあります。
そこにはもう、正義はないと思います。

この状態を改善するのは、容易です。
罰を与えなければいいだけです。
問題があると判断したら、問題を起こす人をつぶすのではなく、
問題を改善する為に、まずは、管理できる人間に相談すべきです。
それだけで、たとえば、ネットに於ける「炎上」という現象はおきなくなると思います。
でも、学校の担任の先生に相談しても、その人が解決できないこともあります。
ときには、先生自身が私的制裁の原因だったりすることもあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
でも、教育委員会もなにもしてくれないこともあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
だいじなことは、絶望しない(あきらめない)ことです。
自分の目の前の狭い世界だけがすべてではありません。世界は広いです。

もちろん、「罰」と、「損害の補償」を一緒に考えてはいけません。
時々「損害の補償」に「罰」が盛り込まれることがありますが、
それは、たいていの場合、ろくな結果にならないです。
第一次大戦後に、連合国がドイツに課した制裁的保障金を思い出すといいです。)

人は、正義にはなれません。
だから、人は、人に、罰を与えてはいけないと思います。
罰ではなく、問題の解決と、再発の防止を考えるべきです。
安易に罰を与えると、もしかしたら、巡り巡って社会の秩序が崩れるかもしれません。
だから、教育や指導に関わる人は、「罰」について、深く考えた方がいいと思います。
恐怖や苦痛や侮辱によって学習させようとするのは、文明的ではないと思います。

アルファードに代わる次世代車両を選定しないといけない。

いま乗ってるアルファードのリースが満了するそうです。
時間が経つのは、はやいのう。
で、次のアルファードを薦められたけど、でっかいメッキのフロントグリルがちょっと派手に感じられて苦手です。
 
で、こまった。
 
ロケット教室に行くから、沢山の荷物を積まないといけない。
遠くまで走るから、乗り心地がよくて、
ちょっとやそっとの悪天候でも平気なのがいい。
遠くが見通せるように、車高が高いのがいい。
 
実は、以前は、三菱デリカのスターワゴンに乗っていました。
正直、この車最高でした。(致命的なパワー不足をのぞけば)
走破性能も高いし、丈夫だから、多少ぶつけても壊れない。
(最近の車のプラスチックのバンパーは弱すぎると思います。)
 
デリカD5もいいなと思いますが、ちょっと小さいかも。
エルグランドは、アルファードと似た感じで、ちょっと派手に感じます。
以前からパワートレインには刮目してるスバルのレガシーの7人乗りも悩みます。(背が低くて、搭載量が小さいかも。)
 
ベンツのVクラスもいいかもしれないけど、
北海道の遠くに出張したときに故障したら心配。
 
ハマ−のH1はとてもほしいけど、さすがの僕でも、
実用性には疑問を感じます。
 
割とすぐに答えを出さないといけないので、悩みます。
本屋で資料本を探してこないと・・・
 
 
 
 
 

「何でこんなこともできないんだ!」に負けないで。

「なんでこんなこともできないんだ!」
と怒られたことは沢山あります。
 
この言葉を使われると、普通の人ができることができない自分が、本当に情けなくて、悲しくて、申し訳なくて、居場所がなくなりました。
 
本当に、「なんでこんなこともできないんだろう・・・」と思いました。
昔は、そこで終わっていたから、自分を責めるだけでした。
 
でも今は、「なんでできないのかな?」を考えるようになりました。
物事には原因があります。それを考えるようになりました。
このときに重要なのは、「何かのせいにして単純化しない」です。
いちばんしてはならないのは、「自分のせい」です。
できない自分を責めるのは簡単です。でも、責めてもなんにもならないです。
もちろん、「だれかのせい」にも「なにかのせい」にもしない方がいいです。
 
時々、
(1)「なんでこんなこともできないんだ!」
(2)「今までどんな教育を受けてきたんだ!」
(3)「まったく。親の顔が見てみたいわ!」
というケースに出会いますが、これをいう人は、思考能力は皆無と言えます。
だって、できない理由を、今まで受けてきた教育のせいや、親のせいにしていますね?
しかも、その先の問題追及をしていませんね。
これは、指導でもなんでもありません。
相手の今までの努力や経験や、親への思いをつぶす、精神攻撃にほかなりません。
 
もちろん、本当に、今まで受けてきた教育が原因の場合があります。親の育て方が原因の場合もあります。
たとえば、強度に高圧的で支配的な教育を受けてきた人は、命令には服従できるけど、思考できなくなっています。
また、強度に過干渉な親に育てられた人は、極度に失敗を恐れます。思考できず、うまくいかないと投げ出したり、自分を責めたりしてしまいます。
このいずれも、大人になって仕事をする上で、かなり問題になることが多いです。
でもそこで、過去の教育を責めても、親を責めても、なんにもなりませんね。
大事なのは、「これからどうしようか?」です。
 
「なんでこんなこともできないんだ!」は、指導者が口にしてはならない言葉です。
もちろん、「なんでこんなこともできないの?」と思うことは自由です。
でもその上で、「じゃあ、こうしてみたらできるかな?」と考え、試すべきです。
いままでの自分の教え方が通じないなら、教え方を変えてみたり、工夫したりすればいいと思います。
 
過去は、変えられません。
でも、未来は変えられます。
これからどうするかを、考えて試していきましょう。

僕はこの事業を応援する!

僕は、クラウドファゥンディングがちょっと苦手です。
昨年、クラウドファゥンディングを勉強したくて、
いくつかのクラウドファゥンディング事業に関わりましたが、
どうも、納得がいくものには出会えませんでした。
 
でも、今回。納得いくの発見です。
沖縄で廃棄されるシークヮーサーを、ゼリーにして、日持ちをよくして、全国で販売する、という事業です。
お隣の滝川市のお菓子屋さんががんばっています。
 
農業は、実は、最高の太陽エネルギー利用です。
でもその農業が、どんどん衰退しています。
この事業が、少しでも、農業の方のプラスになればと思います。
 

「反省しろ!」の無意味さ。

先日、取引先の方があやまりに来られました。
なんでも、欠品があったそうな。
ま、人間、ミスするものです。多少の欠品で本業の製品出荷などに致命的な影響が出るような
ギリギリの入荷手配はしていませんので、事なきを得た件でした。
で、その会社の方にいわれたのは、
「植松電機さんは優しすぎる。もっときつく怒ってください。」でした。

僕としては、失敗は怒る必要は無く、再発を防止する手立てができれば問題なしと思っています。
なんせ、さんざん怒られてきましたから。
だから、怒るということの無意味さを知っています。

少し前までは、仕事などでトラブルが起きたら、
「とりあえず担当者ワビを入れろ!」という経営者が多かったです。
修理とかいいから、まず土下座しろ!です。
で、たいていの人が、怒られたら、平身低頭謝ります。
で、土下座しながら舌だしてます。てへぺろです。
怒られるから、相手に合わせて対応しているだけです。

子どもの頃もそうでした。
問題が起きたとき、先生に呼び出され、犯人は並べられます。
先生から怒られて、いろんな事言われます。有罪を認めろ!といわれます。
僕はそのとき、そうなった理由を説明します。悪気がなかったことを説明します。
すると、「くちごたえするな!」といわれます。
他の子達は、先生の理解が間違っていても、みんな素直に泣いてあやまります。
「ごめんなさい。もうしません。」と泣きながらいいます。
すると、「わかればよろしい。もうするなよ!」と、すぐに解放されます。
僕は、正しく認識してほしいと思って説明します。
だから僕は、さらに怒られます。
後から、その子達にいわれます。「お前バカだな。あいつは単純だから、泣いたまねしたらすぐに解放してくれるんだぞ。」
でも僕は、解放されたいのではないのです。
事実を正しく認識してほしかったのです。

僕は、いろんなことで失敗をしたり、されたりします。
都度、なんでかな?と考えて、だったらこうしてみたら?と、再発防止を考えます。次の手を考えます。
たとえば、以前、ある会社に「沢山売るから独占契約を結んでくれ」といわれて、その通りにして、沢山来る注文に対応するために工場を建てて、人を雇って、まもなく、「経営方針が変わったからもういりません」といわれて、工場建設の借金を返すあてを失ったことがありました。僕はそれを、自分の判断ミスが招いた状態だと反省しました。
だから今では、ある特定の会社の売り上げが、全体の売り上げの30%を越えないように気を付けています。
なぜなら、沢山買ってくれる会社はありがたいのですが、その会社の売り上げが自社の生命線になってしまったとたんに、自由を失うことを学習したからです。
だって、生命線を握られてるんですよ。
来月の注文をしません、ていわれたら、「え、ちょっとまって、それは困ります」になります。そうしたらもう手遅れです。相手の意のままに、値段交渉をされるようになるでしょう。

僕は、自分の判断ミスを反省しました。
でもこれは、自分のせいにする、のとはちがいます。
「自分のせい」にして、自分を責めるだけだと、思考が停止します。
そうじゃなくて、問題を問題だと認識して、発生原因を考え、自分ならこうする、という、再発を防止する対策を考え、行動するのです。

僕は、反省しろ!といわれてする反省は、反省のポーズだと思います。猿でもできます。
本当の反省は、自分で考えるしかないと思います。
だから、重要なのは、「反省しろ!」ではなく、
どうやったら、「本当の反省」をする能力が身に付くのかな?を考えることだと思います。
すなわち、問題解決能力をいかにして育むか、を考えるのです。

おそらく、本当の反省ができる人は、様々なことから学習し、自分の人生に活かせます。
そういう人のみ、「反面教師」が成立します。
他人の問題行動から、自分のすべき道を見いだす、です。
だから、「自分はわざと憎まれ役の反面教師をやってるんだ」なんてのは、ナンセンスです。
反面教師は、こちらから提供するサービスではありません。
それは「反省しろ!」を提供してるのと同じです。
反省は、させてできるものではないです。本人がするものです。
そして大事なのは、本当の反省ができる人を育てることです。

そのために、最も重要なのは、思考力です。主体性です。
それが、本当の反省につながります。
反省の強要は、思考能力と主体性を奪います。それは、どんどん悪循環すると思います。

僕は、大学にいって、驚いたことがあります。
それは、教授達が、生徒に向かって、「お前ら」といわないことです。「諸君」といいました。
僕らを、対等な大人として扱ってくれました。そして、思考の重要性を説きました。
僕はそれが、とてもうれしかったのをおぼえています。
だから僕は、子ども達に、「お前ら」といいません。僕の会社の仲間にもいいません。
そして、上から目線で反省を強要しません。僕は、再発防止を相談します。
だから、僕の会社の仲間は、問題を乗り越えて、前に進んでくれるのだと思います。

でもいまでも、「お前ら!反省しろ!」は、まかり通っています。
その無意味さと悪影響に、気がついてくれる人が増えたらいいなと思います。