安心と自信と自由を増やすには?
夢って何だろう?
大きな会社の正社員?公務員?
なぜ?
それは、もしかしたら、安定した暮らしのため?
それって、もしかしたら、「安心」したいからじゃない?
「不安」から遠ざかりたいからじゃない?
有名になりたい?
なぜ?
それは、もしかしたら、「必要」とされたいからじゃない?
それは、もしかしたら、「自信」がほしいんじゃない?
お金が欲しい?
なぜ?
それは、もしかしたら、いろんなことをやりたいからじゃない?
それは、もしかしたら、「自由」がほしいんじゃない?
正社員も、有名も、お金も、
安心や、自信や、自由を増やすための、手段のひとつにすぎないかもしれません。
ちなみに、
安心とは、安心させてもらうものではありません。
与えられて得られる安心は、他者に生殺与奪を握られている状態です。
それは、安心ではないです。
安心を増やすためには、不安と立ち向かう必要があります。
不安がっているだけでは、不安が増えるばかりです。
不安の原因を考えて、それが本当に不安なのかを考えて、
優先順位をつけて、準備すれば、安心が増えます。
この場合に重要なのは、根拠のない情報をうのみにしないことです。
情報を確認するべきです。
そして、さらに重要なのは、様々な問題に対処できるために、
知識と能力を増やすことです。
人から必要とされるためには、個性が必要です。
なぜなら、同じだとくらべられて、安いのがえらばれるからです。
個性は、他人がしない経験から生じます。
そのために重要なのは、自分で考えて自分で試すことです。
そのために重要なのは、他者評価を自己存在にしないことです。
他者評価を自己存在にしたとたんに、評価者の奴隷になり、
評価者が良しとする人間にしかなれません。それは、個性の真逆です。
そして、「人からどう思われるか?」が行動基準になったとたんに、
「自分で考えて、自分で試す」ができなくなります。
他の人とちがう「知識と能力」があると、必要とされます。
そのためには、必要としてくれる人と出会う必要があります。
狭い世界に閉じこもっていては、それはかないません。
自由を増やすために最も効果的なのは、
自分の能力を増やすことです。
やったことがないことができるようになるのはとても効果的です。
お金を払ってしてもらうことでは、お金で手に入る範囲の自由しか得られません。
極端に考えたら、「お金」や「お店」が機能しない状態を考えたらいいでしょう。
その場合の自由は「自分の能力」と比例します。
そして、様々な経験をすると、知識と能力も増えます。
すると、人から必要とされます。安心できます。
すなわち、「他人と同じ知識と能力」の範囲では、
安心も自信も自由も増えないということです。
だからそれらを、お金などで得ようとします。
それを、売りつけようとする人もいます。
本当は、心と体がものすごく発達する、中学生や高校生の時代に、
様々な経験をするべきだと思います。
でも、実際には、この大事な時期に、部活と勉強しかしていない人が多いです。
学校という狭い世界と、受験という狭い価値観に閉じ込められた人は、
本当の、安心も自信も自由も、増やせないような気がします。
だからこそ、やったことがないことをやる。
自分で考えて、自分で試す。
は、ものすごく重要なのだと思います。
ロケットつくって飛ばしてみたら、安心と自信と自由が、ちょっと増えるかもよ。
すべきは、教育の先送りではなく、前倒し。
個々人は尊重されるべきだけど、「俺を尊重しろ!」とは思わない方がいい。
いま、民主主義の勉強をしています。
なぜなら、いい会社を作りたいからです。
そこで、民主主義の歴史を調べています。
さかのぼること、ギリシア時代です。
その時代は、基本的に王様による独裁が主でした。
スパルタや、ペルシャなどの強大な国家がありました。
でも、民主主義は、独裁よりも強くなれる可能性があります。
なぜなら、より多くの情報を元に判断できるからです。
民主主義の大事な所は、少数意見の尊重です。
それはすなわち、個々人の尊重につながります。
でも、そこからが問題です。
自分を尊重しろ!という人が現れると、民主主義はくずれていきます。
自分を尊重しろ!には、大別して2種類あります。
(1)俺は優れているから、尊重しろ!
(2)俺は弱いから、尊重しろ!
いずれにせよ、こういう主張は、他者を尊重していない主張です。
ですから、個々人の尊重が守られなくなり。民主主義は不成立になります。
尊重とは、すべきものであって、自分を尊重するよう要求するものではないと思います。
でも、けっこう身近で目にするのは、
「年長者を敬え」「先輩を敬え」「後輩のくせに生意気だぞ」「若造のくせに」
という言葉です。
これは、他人を尊重しない人が使う言葉です。民主主義の敵です。
だから僕は、年齢に関係なく、尊重する努力をします。
子どもにも、大人と同じように接します。
普段から練習しないと、いざというときできないからね。
恐怖と苦痛と侮辱という罰は与えてはいけないと思う。
「天誅」という言葉があります。
幕末のドラマなどで、よくつかわれてる気がします。
でも、「天誅!」と叫びながら、人斬ってんのは人間だよなあ。
それって、天誅なのかなあ。
僕は子どもの頃、いろんな大人から罰を与えられました。
特に、小学校の先生からは、酷い罰を与えられました。
その罰は、恐怖と苦痛と侮辱でした。
僕は、忘れ物が多かったです。だからいつも怒られます。
それでも忘れるから、怒られるのはエスカレートします。殴られます。でも忘れます。
やがて、担任の先生が替わりました。
その先生は、「忘れ物をしないためにはどうしたらいいかな?」と考えてくれました。
そして、僕にチェックリストというものを教えてくれました。
それだけで僕は、忘れ物をしなくなりました。
あんだけ、怒鳴られて、侮辱されて、殴られていたのが、バカみたいです。
生徒は嘘をいうこともあります。本当の事を言えないこともあります。
だから時には、先生の間違った状況認識に基づいて怒られることもありました。
あとから間違いに気がついても、先生は謝りませんでした。
いま、僕は、人は人に罰を与えるべきでは無いと思っています。
特に、恐怖と苦痛と侮辱という罰は、使ってはならないと思います。
なぜなら、人は間違いを犯すからです。
間違った判断に基づいて罰を与える可能性があるのは危険です。
昔から、正義は難しいと思われていたと思います。
古くから、正義の象徴は「天秤」です。バランスです。
そのバランスを完璧にとれるのが、正義なのだと思います。
でも、人間は、残念ながら、そのバランスを完璧にとるのは難しいです。
だから、裁判には、多くの人手をかけます。大勢が判断することで、
平均化を図るのだと思います。
すなわち、個々人の判断に基づく罰は、もっとも危険ということです。
ネット上で、不愉快で、納得できない意見を見つけたから、みんなのために攻撃する。
クラスで、授業の進捗の妨げになってる「とろい奴」を、みんなのために攻撃する。
職場で、ミスばかりしてる人を、みんなのために攻撃する。
これは、みんなのため、といっていますが、そのみんなとは、たいていの場合、
とても狭い範囲の人達です。下手したら自分だけです。
自分だけの思考を、さも大勢の大義であるかのように表現するのは、
「ロイヤルウィー」とよばれますが、
「みんなのため」という大義名分があるときの罰は容赦ないです。
時には、みんなの反応で盛り上がったり、英雄的な行動のアピールとして、
増長する傾向もあります。
そこにはもう、正義はないと思います。
この状態を改善するのは、容易です。
罰を与えなければいいだけです。
問題があると判断したら、問題を起こす人をつぶすのではなく、
問題を改善する為に、まずは、管理できる人間に相談すべきです。
それだけで、たとえば、ネットに於ける「炎上」という現象はおきなくなると思います。
でも、学校の担任の先生に相談しても、その人が解決できないこともあります。
ときには、先生自身が私的制裁の原因だったりすることもあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
でも、教育委員会もなにもしてくれないこともあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
だいじなことは、絶望しない(あきらめない)ことです。
自分の目の前の狭い世界だけがすべてではありません。世界は広いです。
もちろん、「罰」と、「損害の補償」を一緒に考えてはいけません。
時々「損害の補償」に「罰」が盛り込まれることがありますが、
それは、たいていの場合、ろくな結果にならないです。
(第一次大戦後に、連合国がドイツに課した制裁的保障金を思い出すといいです。)
人は、正義にはなれません。
だから、人は、人に、罰を与えてはいけないと思います。
罰ではなく、問題の解決と、再発の防止を考えるべきです。
安易に罰を与えると、もしかしたら、巡り巡って社会の秩序が崩れるかもしれません。
だから、教育や指導に関わる人は、「罰」について、深く考えた方がいいと思います。
恐怖や苦痛や侮辱によって学習させようとするのは、文明的ではないと思います。