植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

人類の努力の蓄積を無にするな

世の中便利になりまして、
電子書籍のおかげで、様々な技術資料も容易に持ち運べるようになりました。
検索機能も向上し、瞬時に必要な情報を見つけられます。

僕は、自分の好きな物に関しては、かなり記憶できます。
でも、それでも記憶できていないデーターも多いです。
そりゃそうです。
この世には、莫大な量の本があり、それをすべて暗記するのは不可能です。
だからこそ、本があります。図書館があります。
そしてそれが、最近は電子書籍になってきました。

記憶が読み込み書き出しが速いフラッシュメモリーだとしたら、
本などは、ちょっと遅い外部メモリーだと思います。
でも外部メモリーへのアクセス速度は、科学のおかげでどんどん上がっていますし、重量あたりの容量もどんどん増えています。

大昔。まだ書物が手書きだった時代。
貴重なデータは、頭に入れるしかなかったのでしょう。
その時代は、暗記によるデーター量と精度が大事でした。
日本は、版画による印刷技術は発達しますが、
残念ながら、漢字のおかげで、活字による印刷技術は
うまく発達できません。
そのため、幕末でも、例えば解体新書などの素晴らしい本も、
書写で複製するしかないのです。
それらの本は、異常に高価で、希少なものですから、
手に入れるのは困難です。
その時代の人達は、必死でその本を読み、それを書き写すことで、自分のものにしていました。
その世界では、勉強とは、暗記です。

しかし、海外では、アルファベットのおかげで、活字の種類が少ないため、活字印刷技術が普及します。
貴重なデータは、どんどん複製され、安価に広まります。
しかも活字は、小さくても読めるので、本の情報量は、手書きに比較すれば飛躍的に増えます。
小脇に抱えた本をしらべながら、様々な思考ができます。
この世界では、勉強とは、知識を使いこなす思考力です。
ちなみに、ヨーロッパで印刷技術が実用化されたのは、
日本だと室町時代の後半です。

日本で活字印刷技術が普及するのは、1900年頃です。
ヨーロッパと、約400年の差があります。
この間に、勉強というもののあり方にも、
とてつもない差がついてしまったまま、
その差を埋める努力はされてこなかった気がします。

暗記に頼ってする仕事などありません。
そりゃ、暗したデータは素早く取り出せます。
しかし、暗記には思い違いがあります。
だから、本当に大切なビジネスの場合、
暗記などに頼れません。必ずデーターによる確認が必要です。
安全のために人間を信じない方向に進んでいる現代では、
今後は、ますます暗記に頼る仕事は減るでしょう。

さらには、人類は今日もがんばっているので、
人類のデータはどんどん増えているのです。
その増える速度は、人間の記憶力が、勉強方法の改善などで増えたとしても、追いつくものではありません、

僕は、中学校の頃から、暗記力を確認するための簡単なテストよりも、
参考文献何でもありで、より難しいテストにした方が、人の能力は高まるのではないかと感じていました。
先生に提案しましたが、もちろん一笑にふされました。

でも、大学では違いました。
古い形態の授業ほど、暗記力確認型のテストですが、
より高度な授業ほど、参考文献なんでもありで、
あげくは、家にもって帰ってやっていいのです。
筆算ではなく、コンピューターを駆使してもかまわないのです。
僕は、この形態のテストになってから、成績を伸ばせたと思います。
そしていま。仕事をする上では、なんでもありです。
というか、その「なんでも」を増やした人が勝ちます。

日本の教育は、かなり改善されています。
中学校の授業に参加させていただいたことがありますが、
数学も英語も、おもしろかったです。
先生の努力と、授業の準備は大変だろうと思いました。
(ただし、それらの努力と準備ができない先生もいます。それは、部活の顧問を熱心にしている先生です。部活にかける時間が大きいので、授業の準備が最低限になります。でも、義務教育の題目の中には、部活は入ってません。部活は義務ではないです。だのに、義務教育よりも、義務ではない部活に力をいれるというのは、どうなのかな?と思います。もちろん、子ども達が家庭学習をしなくてもいいように、授業の準備もしなくてもいいです。でも、子ども達が家庭学習したほうがいいように、授業の準備もしたほうがいいと思います。)

でも、根本的に、諚意下達式の授業と、
暗記量と暗記精度を確認するためのテストにかわりはないです。

もしも、暗記量だけで、資料何でもあり型のテストを受けたら、
そりゃもう、ぜんぜん点数が低いでしょう。
だから、テストのレベルを下げて、点数がとれるようにしているのだとしたら、それは本末転倒では?

僕はロケット教室のとき、作り方は教えません。
仲間同士で助け合って、しゃべりながらつくるように指示します。
それができる先生と、できない先生がいます。
生徒が自由にしゃべることをやめさせ、
説明書の1番から順に指示し、
全員が1番できるまで待ちます。
はやくできた子は、ぼーっとヒマそうです。だから、
隣の子と、関係ない話しをして怒られます。
できない子は、「はやくしなさい」「ちゃんとしなさい」「どうしてわからないの」「そうじゃないでしょ」「みんなあなたを待ってるんだよ」「ちゃんとよみなさい、かいてあるでしょ」「ああー、ちがうちがう、なにやってんの」という言葉で追いつめられます。

そういう先生のテーブルは、ロケットが完成しません。
というか、ものすごく時間がかかります。
だから、出来上がったロケットにデザインもできません。
愛着がわきません。

にこにこと、ほがらかに、自分のオリジナルロケットをみせあいっこできるテーブルもあるのに、
みんな葬式のようにしずかに、真っ白のロケットがろうそくのようにならぶだけのテーブルもあるのです。

吉田松陰松下村塾は、
議論型の授業だったそうです。
最近人気のマイケルサンデルさんの授業も、
みんなが「自分の意見」をしゃべることで、
お互いの思考力を刺激して高め合う授業です。

それが、できる先生と、できない先生がいます。
できない先生がいるのは、その能力を、文科省が求めていないからです。
先生の採用試験には、そんな評価のしようがない方法がはいることはできません。

かくして日本は、遥か太古の、印刷技術が乏しかった時代の科挙の流れをしっかりと受け継いだ勉強をしています。
科学はせっかく発達してるというのに。
人類の努力を無視して、日本の教育は進みます。
そして、そのつけを背負わされるのは、子ども達です。

まもなく、スカウターのように、体に装着する電子端末が普及し、自動翻訳機も誕生するでしょう。
さらには、電脳化まではいかなくとも、直に人間が無線LANにアクセスできるようになるかもしれません。
(事実、目が不自由な方のために、その研究は進んでいます。)
そのとき、日本のテストはどうなるのかな?
無線LANにつながれないようにして、テストするのかな。

だから、大事なのは、
子ども達とたくさんしゃべることです。
議論することです。
本をつかってしらべる習慣を付けることです。

家に虫が入ってきたら、
「きゃー、気持ち悪い、殺して!」ではなく、
「これはなんだろう?ちょっと図鑑持ってきて。」
であるべきです。
もしかしたら、新種かもしれませんし。

幸いなことに、僕の父も母も、そういう人でした。
2人とも、知らないことをしらべることをおろそかにしませんでした。
それは、80歳になる今でもです。
先日、大きな本屋に父と母を連れて行きました。
こんだけ広いと、合流するのは難しそうだな、と思っていましたが、あっさり合流できます。
2人とも、技術書のコーナーにいました。
母さんも、鍛冶屋の娘なので、技術書が大好きです。

最近の大学生は本を読まないそうです。
これは、本当にものすごく恐ろしいことです。
せっかくの人類の努力の蓄積を無にする行為です。

本の価値を知る人がもっと増えたらいいと思います。