植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

自由とは、尊重かも?

奴隷問題を描いたルーツというお話の中で、
アフリカからつれてこられたクンタ・キンテは、
故郷に帰り、愛する家族に再会することを考え続けます。
白人からあたえられた名前をよしとせず、
部族の言葉を大切にします。

しかし、かなり昔に奴隷になり、
何世代も経てしまった奴隷達は、
いまの暮らしがいいといいます。

白人を怒らせなければいいだけだ。
白人に嫌われないようにしよう。
それだけで、寝床もある、食事もある、
なにが悪いというのか。
アフリカに帰ったら、こんな暮らしは無いんだぞ。
と彼らは考え、
白人の理不尽な要求にも応え、白人の顔色をうかがい、
空気を読んで、
自分の気持ちを押し殺して、「安定な暮らし」をします。

「自由を知らない人は、自由を求めない。」

クンタ・キンテの娘は、こんな言葉をつぶやきます。

では、自由ってなんだろな。と思います。
お話の中では、白人にもいろいろいます。
いい人もいます。そうではない人もいます。
いい人に共通するのは、相手に対する尊重です。
そうではない人に共通するのは、相手に対する命令です。

学校の生徒が集まるとき、
「静かにしろ!」と命令しないと静かにならない学校があります。
命令しなくても静かになる学校もあります。
では、命令する方はだめでしょうか?

なぜ命令しないといけないのか?
それは、生徒側に尊重が欠けているからかもしれません。
(この場合の尊重とは、先生に対する尊重ではなく、みんなの時間を大切にするための尊重でしょう。)

尊重がない相手には、尊重のない対応しかできないのかも。

もしかしたら、自由の為に大切なのは、
お互いの尊重なのかもしれません。
他者を尊重できない人間の自由が、自分勝手などの
評価をされてしまうのかも。

では、尊重とはなにか?
相手を大切にすること?
相手の意志を受容すること?
でもそれって、
相手の顔色をうかがい、空気を読むこと?
相手を怒らせないこと?
相手に嫌われないようにすること?
波風を立てないようにすること?

これでは、奴隷の思考と同じになってしまうなあ。

でも、これはこれで大切なことです。
大事なのは、お互いがこれをすることかも。

どちらかが、
自分の「怒り」「嫌い」「不愉快」を使って、
俺をそうさせないためには、お前の努力が必要だ、と
相手を自分の意のままになるようにすることは、
尊重ではないと思います。

もしかしたら、「怒る」「嫌う」を、交渉の道具に使う人は、
尊重のない人なのかもしれません。

両方が「怒る」「嫌う」を使った場合は、
そこには「争い」が生じるのだと思います。

ということは、
自由を考える時には、尊重が重要で、
尊重のためには、「怒り」「嫌う」を交渉の道具にしないことが重要なのかもしれません。
(もしかしたら、人間関係で言われる波風とは、「怒り」や「嫌う」なのかもしれないです。)

自由は、解釈が難しいです。
学校の先生の中には、自由なんて言うと、子ども達が収集つかなくなるからダメだ、と考える人もいます。
でも、難しいからこそ、考えるべきです。

今日、僕が、ルーツのワンシーンから考えた「自由」とは、
(1)相互の尊重
(2)尊重のために、怒りと嫌いを交渉の道具に使わないこと
です。

もちろん、また違う何かの刺激で、僕の中の「自由」は変化すると思います。
でも、答えは一つじゃないと思います。
沢山考えることが大事なんだと思います。

今日考えたことは、これから、「怒り」や「嫌い」という感情がわいた時に、「ああ、いかんいかん、これは相手に対する尊重がない状態だ。相手の自由を奪おうとしている状態かもしれない。」という形で、僕の人生に活かされると思います。