植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

「現実を見ろ!」に負けないように

「現実を見ろ」という言葉があります。
僕はきっと、ほかの人よりも多く、この言葉を聞かされています。

たいてい、
なにかにチャレンジしようとしているときに、
それをやめさせるために使われることが多いと思います。

例えば、
「飛行機ロケットの仕事がしたい。」
という中学生の僕の意志は、
「飛行機ロケットの仕事は、よほど頭が良くないと無理だ。
東大に行かないと無理だ。
お前の頭では(成績では)ぜったいに東大にうからない。
この街(僕の故郷)から東大に行った人もいない。
だから、こんな田舎に生まれた段階でムリだ。
現実を見ろ。」
というような感じで。
この時僕は、「これからがんばる」とは言えませんでした。
言えるような空気ではありませんでした。

僕は、「現実を見ろ」と言われたから、「現実」についてたくさん考えました。
その結果、「現実」とは、次の瞬間には過去になる、ということを知りました。
だから、現実とは、過去なのです。

そして、過去は変えられません。
成績が悪い、という現実は、僕の過去が形成したものです。
テスト前勉強をしないで本を読んでいたとか、
授業中にノートに飛行機の計算を書いていたとか、
そういう過去が、僕の「成績が悪い」という「現実」を
作り出しています。

買えられない過去で、未来をあきらめさせられました。
これは、無言のうちに、
「努力は無駄だよ。」を自覚させてくれます。

いままでダメだったから、これからもダメさ。
いままで勉強したってわからなかったんだから、これからもわからないよ。

という感覚を持ってしまった人は、
学びたくないです。知りたくないです。
やったことがあることの中で、まあまあ人に評価されたことしかできなくなり、
自分で考えるのも嫌になります。
そして、それを「普通だよね。みんなそうだよね。」と言い訳しないと、
つらくてやってられません。

そのために、
「自分なんて・・・」
「どーせ・・・」
「むり」
という言葉を使わざるを得なくなります。
この言葉は、口にするだけで、何もしなくてよくなる、
魔法の言葉です。

自分なんて、
いままでやってきたけど無理だったから、どーせ無理だよ。
前にやったけど無理だったから、どーせ無理だよ。

この思考の原因は、
変えられない過去によって未来をあきらめさせられることです。
未来の可能性や、努力の可能性を否定された結果です。

誰かが夢を持った時には、
それに対して、
できるか、できないか。
食えるか、食えないか。
をジャッジする必要はありません。
その夢を実現するためにはどうしたらいいかを
真剣に考えるべきです。
その際、学校は手段の一つにすぎない、
ということから考えるべきです。

たとえば、
「◯◯の学校に行きたい!」という夢であれば、
なぜその学校に行きたいのか?
他の学校ではだめなのか?
他の手段ではだめなのか?
をしっかり考えるべきです。
そうすれば、いかなくていい学校に行かなくてすむかも。

また、その過程で、
実は学校に行きたいのは、その先のことを考える時間を稼ぎたいからだ、ということが明確になるかも。
その場合は、お金かけて学ぶ気もない学校になんて行く必要ないですね。違う方法で、自分の未来を考えればいいです。
禅を学ぶのも、滝に打たれるのもいいかもしれません。

現実を見るのは、現在の自分の能力を把握するという意味では大切な行為です。
しかしそれは、ただの現状の確認にすぎません。
その状態で、これからどうするのか、を考えなければ、
現実なんて、なんぼ見たって、おなじです。

だから、
「現実を見ろ!」と言いたくなった時には、
「だったらこうしてみたら?」と言い直したらいいです。
「現実を見ろ!」と言われたら、
「だったらこうしてみたら?」と考えればいいです。

それだけで、きっと確実に前に進みます。
難しくはありません。