幸せの考察(2)思慮の深さの影響
財布が落ちているのを発見しました。
中身は、けっこう入ってます。
「ラッキー」と思うのか?
「落とした人は困っているだろう。」と思うのか?
この思考の違いは、なぜ生じるのか?
それは、思慮の深さの差によるものかも。
お金を拾った。
から、いかに先のことを考えるのか?
その思慮の深さは、脳内のシナプスの複雑さに比例するのかな?
実験では、
何をするのかを指示してやらせたグループと、
何をするのかを考えさせたグループでは、
脳内の複雑さに大きな差が出たと言われています。
もしかしたら、指示待ち族と言われる、
思考できない人達は、
財布を拾ったら「ラッキー」と思えるのかも。
と同時に、ほんの少しの気に食わないことでも、
すぐに「アンラッキー=不幸」と思えるのかも。
僕は以前、行いの良くない人には、天罰があたればいい、と思っていました。
でも、よくよく考えたら、そういう人は天罰があたっても、
その意味を考えて自分の行動を改善する、なんてことはないですね。
アンラッキーとしか思わず、逆にまわりに八つ当たりをするだけだな、と思いました。
だから、今では、行いの良くない人には、天罰はあたらない方がいいと思っています。
僕は、アンラッキーなことがあった時は、
これは、もっと悪くなる前に教えてくれたシグナルだな、
と思うようにしています。
例えば、オービスを光らせたとします。
僕は、「ああ、これは、疲れてぼんやり運転していると、もっとひどい事故を起こすよ。気を付けろ。」というシグナルなのだと思います。
でも、「くっそー!なんであんなとこにオービスあるんだよ!俺はついていない!むしゃくしゃする!」と思うことも可能です。
そして、むしゃくしゃして運転したら、もっと状況は悪化するでしょう。
どんなことでも、その意味を考え、
自分の改善につながるように考えて行動すれば、
きっと自分はもっとよくなると思います。
どんなことでも、意味を考えず、
アンラッキーを恨んでいるかぎり、
自分はよくならないでしょう。
これも、幸せについて考える時に、
とても重要な要素かも知れません。
だからこそ、子ども達には、指示や命令に従わせる練習だけではなく、自分で考えて試すチャンスも沢山つくるべきなのだろうと思います。
(ちなみに、京都の某高校では自由研究を増やすことで、生徒の学習意欲も学力も向上したそうです。保護者や先生からは、そんなことしないで受験対策しろ、とかなりバッシングされたそうですけどね。)