植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

問題解決のために。

問題を解決するために重要なのは、
その問題を解決したいと思っている人で
考えることです。

なにを言ってるかって?

問題を解決するための会議を台無しにするのは、
解決すべき問題を、
「自分はそれを問題だとは思わない。」
と言い切ってしまう人達です。

もうちょっとわかりやすく言うと、

子どもが、友達にひどいことを言われた、という
悩みを打ち明けてくれたとします。
その時に、「そんなの気にすんな!」と
言ってしまうような人は、
会議というか、問題解決を止めてしまいます。

だって、その子は、嫌なことを言われてつらいのです。
でも、自分はそんな言葉は平気だよ、
だから、あんたも気にするな。
とアドバイスしても、
そもそも、その子はつらいのです。
それを、いや、つらくない。と言ってるだけです。
話しがかみ合っていません。

おそらく、この子は、こういうアドバイスをした人には、
もう二度と相談しないでおこう、と思うでしょう。

こういう人は、問題を解決するための会議の席から外すべきです。

こういう人の存在は、その問題が解決すべき問題かどうかを話し合う場合には必要な存在です。
でも、問題が解決すべきだと認識された次の段階では、
この人は必要ありません。
だって、この人は、その問題を問題だと思っていないんだから、
解決するアイデアは出てくるはずもありません。

たとえば、商品を開発し、それを売るための戦略会議で、
「それ、ほんとに売れるの?」みたいな発言する人も、
その会議からは除外すべきです。

解決すべき問題は、
解決したいと思う人達で会議するべきです。

残念ながら、この世は、解決すべき問題で溢れています。
しかし、問題を問題だと思わない人達は、
その問題を解決するために役に立ちません。

問題を問題だと思わない人とは、無関心な人です。
いやいや、恵まれている人は、問題に気がつかないよ、
という意見もあるかと思いますが、
なんぼ恵まれていたって、周囲を見渡して、
ちゃんとニュースなどを見ていれば、
問題には気がつくことができます。
ということで、問題を問題と思わない人は無関心な人です。

無関心になる原因はなにか?
それは、
「どーせ、かわらないよ。」
という考えかもしれません。

では、なぜ「どーせ」になるのか?
それは、理不尽なことを押し付けられたり強制された経験からかも。
特に、これは、不法なことよりも、合法なことで強く感じます。
いじめられた経験よりも、いじめられたことを相談しても解決されないばかりか、かえって悪化した場合などに、
信じるべき合法が無力であることを知ると、
「どーせ」と思うようになってしまうかも。

ということは、
「友達に嫌なことを言われて悩んでるんです。」という相談に、
「そんなの気にすんな!」と答えることは、
「どーせ」を生み出すプロセスかもしれません。
これは、どうやら連鎖するようです。

だからこそ、
問題を良く考え、解決する思考をすべきです。
その練習をすべきです。

そのためにも、
問題を知った時には、直感的な自分の感想で終わらず、
なぜそう思うのかを考える、ということが大事だと思います。

また、誰かに悩みを打ち明けられた時は、
自分の直感的な感想ではなく、相手がつらいのだということを良く理解して、なぜ相手はつらいのか、などを、相手の気持ちになって思考することが大事です。