植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

生き方を学びたかった。

子どもの頃、「魔王」という歌曲が嫌いでした。

魔王という歌曲については、知ってる人も多いかとは思いますが、
病気で苦しむ子どもを、父親が必死で町の病院まで
運んで行く様子をえがく歌曲です。
子どもは、うなされて、魔王が迫っている、といいます。
父親は、気のせいだ、気にするな、と励まします。
でも、子どもは町についた時には死んでいた、
という、悲しい歌曲です。

僕が嫌いだったのは、
子どもが説明しても、
父親にはそれが見えず、わからず、
だから、ただ馬を走らせるしか無く、
子どもが救われない、という部分です。

僕の話しも、大人には理解してもらえませんでした。
僕の説明も、聞いてもらえませんでした。
普段から、学校の先生に気に入られている子達の話しは
すぐに信じてもらえるのに。

いじめられた時も、有希を出して先生に相談しても、
先生は、いきなり相手を呼び出します。最悪です。
そして、相手に「本当か?」と、僕の目の前で問いただします。
当然相手は「そんなことしてない」といいます。
先生は僕をにらみます。
「お前が気にし過ぎだ」と言われます。
そして、そのあと、ツゲグチをした僕は、帰り道でさらにひどい目にあうのです。でも、もう、相談する相手はいないのです。

僕は、数年前に、CAPのスペシャリストになりました。
6日間の講習を受け、児童心理や、虐待の実態や、
その対策の現状などについて学びました。
そして、スペシャリストとして活動したとき、
僕は衝撃を受けます。

CAPでは、子ども達を暴力から予防するために、
暴力への対処の仕方を、寸劇を使って体験させます。

僕は、いじめられる役でした。
僕は学校の帰り道に、友達にカバンを持たされるのです。
今日から毎日持つのだと、約束させられます。
その劇の最中に、胸が苦しくなりました。
僕は、同じ目にあっています。

そして、僕は、友達に相談します。
「いやだよ」と言いたいけど、一人では言えないから、
一緒に来てくれと、友達に頼むのです。
それは、台詞です。一語一句間違えてはいけない、
CAPの台本に書いてある台詞です。
でも、それを言うのが、とてもつらかったです。

それを聞いてくれた友達は、
「いいよ!」と言ってくれるのです。
それも、台本に書いてある台詞です。

その「いいよ!」を聞いたとき、
心の中に作ってあった壁と言うか、鎧というか、
自分を守るために、閉じ込めていた自分の心の牢獄の
扉が、開かれたような気がしました。
劇の最中なのに、涙をこらえるので必死になりました。

僕は、何も解決していなかったのです。
いじめは、学校を卒業して、その子達と関わりが無くなったらなくなったけど、僕は問題を解決していなかったのです。
そして、相談しても聞いてもらえない。
だれも助けてくれない、と思い込んでいたのです。
だから、ずーっと一人で解決する努力をし続け、
理論武装し、強くなる努力をし、
法律を学び、相手をやっつけてきました。
ビジネスをするようになってからは、それに拍車がかかります。
自分にされた嫌なことを、僕はどんどん自分の武器にして、
相手をやっつけて行きます。
それが、正しいと思いました。
それが、強さだと思いました。
でも、自分がやっつけた相手に、家族や、子どもがいたことを知らされたとき、僕は、自分の恐ろしさで死にたくなりました。

僕は、よい生き方を知りませんでした。
それになんとなく気がついたのは、40歳になろうとするころだったかも。
それまでの間に、どれだけの人をやっつけてきたのか。
やっつけなくていい人をやっつけてきたのか。

卒業と同時にすっかり忘れてしまった受験勉強なんかよりも、
生き方を教えてほしかった。
それでも僕は、まだ本を読んでいたから、
本の中の人とは沢山関わることができました。
会社を経営してから、沢山悩んでくるしんで、
苦し紛れに入った青年会議所でも、
多くの人に関われた。
僕は、本を読み、人と関わろうとしたから、いくらか
学ぶことができています。
だから、この年になって、いくらか生き方を知ることができたかも。
でも、本を読まない人もいる。人と関わることを否定する人もいる。
そういう人は、もしかしたら、今も誰かをやっつけているかも。

人生には、問題がつきものです。
その問題は、問題だと思った人だけが感じます。
問題を問題と思わない人間が、
「気にするな」
「気のせいだ」
「強くなれ」
「がんばれ」
それはすべて、今の問題を解決できないお前が弱い、と
突き放すようなものです。

わからないから、どうしていいかわからないから、
助けが欲しい状態が、「問題」です。
その乗り越え方を学ぶ機会が、現代社会では、
乏しいような気がします。
なぜなら、学校で、問題の避け方ばかりを教えられるからかも。

教育とは、死に至らない失敗を安全に経験させるもの。
学問とは、社会の問題を解決するためのもの。

これを教えてくれたらば、僕はもう少し、
優しい生き方ができていたような気がします。