植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

助け合いを構成できる人

昨日は、三重県のものづくり企業の方々と、愛知県の技術者の方が、わざわざ体験学習にきてくださいました。

三重県の方々は、長年ものづくりの仕事をされてきた、
けっこうお年を召した経営者の方々です。
(もちろん、僕と同世代の方もいましたよ)
その方々が、モデルロケットを作るとき、
それはもう、すごく器用ですし、いろんなことを話し合いながら作ります。
そうとう細かい字が見えにくいようなのですが、
メガネを外し、一生懸命に説明書を読んでくれます。
そして、かなりのはやさで完成させたと思ったら、
今度は、デザインに迷いなく取り組みます。
個性的な美しいデザインを、どんどん描いていきます。

最近の若い子と、正反対です。

その違いは、年齢によるものなのか?
そうではないような気がします。
では、経営者だからか?
いや、経営者は、性質の結果に過ぎないような気がします。

人とかかわり、自分のことを話せて、相手の話しを聞けて、
疑問を感じ、わからないことを調べて、考えて、尋ねて、
それを、ほかの人に伝える。

これは、そんなに難しいことではないような気がするし、
小学生低学年なら、ほぼ自動的にできます。

それが、なぜ、高校生くらいになると、できなくなるのか?

人は、助け合う生き物です。
助け合わないと、生きていけません。
なぜなら、人は弱いからです。
時々、「自分はだれの助けも必要としません。だれも頼りません。だから、私を頼らないでください。私を必要としないでください。」という人と出会います。
こういう人は、PTAの役などはやってくれないです。
でも、この台詞を、無人島で言えるならたいしたもんです。
都市部で、公共サービスのおかげで生きている人が、
「だれの助けも必要としない」というのは、おこがましいです。

本当にひとりぼっちなら、寝るのが怖いはずです。
寝てる間は無防備です。
以前、北海道の山中で、熊に襲われた大学生が記録を残していましたが、そこには、弱き存在が夜も寝られない恐怖が描かれていました。

助けを求めるのは、悪いことではありません。
恥ずかしいことでもありません。
そして、だれも助けを求めなかったら、だれも助けられません。
そこには助け合いは存在できません。

助けるとは、余裕がある人が行う施しではありません。
そう考えてしまうと、
余裕がないふりをすれば、助けなくてすんでしまいます。

助けるとは、足りないもの同士が、補い合う行為だと思います。
だから、助け合いを成立させる大事なことは、
(1)自分の足りないことを認め、助けを求めること。
(2)他人の困っているところをおもいやり、助けること。
(3)その助けを、受け入れること。
だと思います。
もしかしたら、(1)と(3)は同じ意味かもしれません。

(1)と(3)に必要なのは、弱さを認める勇気だと思います。
(2)に必要なのは、助ける能力です。

(1)と(3)を阻害するのは、
ちゃんとしなければいけない、という気持ちだと思います。

ちゃんとしなさい!は、とてもいい加減で具体性に欠ける言葉です。
それを言われ続けた人は、
ちゃんとしなければいけない、と思います。
でも、どうすればちゃんとなるのか具体的にはよくわかりません。
やがて、ちゃんとする、とは、助けを求めない、だと
思い込んでしまうことがあります。
人に迷惑をかけない、というのは、本来は、
公共の害になる行為をするな、という意味が強いと思いますが、
残念ながら、人の力を借りるな、とおしえてしまう人もいます。
そうすると、助けを求めることは、悪いこと、という
認識になってしまうかもしれません。

(2)を阻害するのは「自分なんて・・・」だと思います。
自己肯定感が低いと、人を助けられる気がしません。
自分よりできる人ばかりを見つめ、自分はダメだと思い込み続ける人は、自己肯定感が低くなります。
その原因には、自分よりできる人と比べられる経験や、
自分はダメだと思い込むような失敗体験があるかもしれません。
人間は、やったことがないことをやると、失敗します。
その時に、「なんでこんなこともできないんだ!?」と言われたら・・・
おまけに「俺が子どもの頃は、こんなこと簡単だったぞ!」と言われたら・・・
それでもがんばって、2度、3度と挑んでも、回数を重ねる毎に、
なおさらひどくののしられたら・・・
自分は劣った人間なのかも・・・と思い込むしかないかも。

人を助ける力が無いような気がして、おまけに、助けを求めることが悪いことのような気がしてしまったら、
助け合いを構成できない人の完成だと思います。

ということは、この逆をやればいい、ということかな?

子どもを指導する時は、なるべく、具体的な指示が必要です。
というか、「ちゃんとしなさい!」なんていうのは、
単なる「不愉快の表明」に他ならないです。
どうすればちゃんとなるのかは、指示すべきです。
(子どもに具体的に指示すると、思考力を失う、という人もいますが、そりゃ、なにからなにまでそうすると、思考力は失われます。しかし、「ちゃんとしなさい!」という状況は、トラブルです。トラブルの解決方法は、なるべく具体的な方がいいです。なぜなら、トラブル時には、混乱し困惑するからです。
たとえば、自動車事故を起こした人に「ちゃんとしなさい!」と怒鳴っても、なんにもならないですね。すべきことを教えるべきです。)
大事なのは、問題の解決です。その方法を教えるために最高なのは、問題です。トラブルです。
だから、思わず「ちゃんとしなさい!」と怒鳴りたくなる時は、
実は、問題の解決の仕方を教えるまたとないチャンスです。
だから、まずは、自分の心の中の「不愉快」な気持ちをおさえて、
「なんでだろう?」「だったらこうしてみたら?」と
解決手法を提案し、選び、というプロセスを試すのがよいと思います。

また、子どもが「できない」とき、できないという現状を批判しても何にもならないです。それを一番よく認識しているのは、本人です。
だからこそ、この時も、具体的な指示が必要です。
僕は大学生になるまで逆上がりができませんでした。
ずーっと、逆上がりできない僕は「腕だ腕!」「足だ足!」「ぐっとひっぱれ!」「蹴り上げろ!」そして、「なんでこんなこともできないんだ!みんなできてるのに!」と言われ続けました。
でも、大学の先生が、「重心位置を鉄棒に近づけろ」と言っただけで、僕は逆上がりができてしまいました。

なるほど。ということは、
子どもに指導する時に、自分の不愉快をぶつけ、
具体性の無い指導を行うと、助け合えない子どもが完成するのかも。

子どもが何かをやらかした時は、
(もしくは、何かができなかったときは)
いらっとする気持ちを抑えて、
これは絶好のチャンスだと考え、
何が問題なのかを考え、
それを解決する方法を考え、
それを子どもとともにやってみて、問題解決を実感させ、
問題を解決できたことを褒める。

きっと、これに気をつけていれば、
助け合える人を作れるような気がします。

おそらくは、沢山の困難をのりこえてきたであろう
オジイちゃん達(失礼)が、楽しそうに、真剣にロケットを作り、
その仕組みに沢山質問し、ロケットが飛ぶと子どものように
喜び、大切そうにもって帰ってくれた姿を見ていて、
そういう人が増えたらいいなあ、と思いました。

ちなみに、オジイちゃん達のバスが出発したあと、
吹き流しもちぎれよとばかりの暴風が吹き、
とてつもない大雨になりました。
ロケット打ち上げをさせてくれた神様に感謝です。