植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

どの学校にいったのか?ではなく、何を学んだのか?

先日は、ある専門学校の学生さん達に話しを聞いていただける
機会をつくっていただきました。

きりっとした、スーツ姿も格好いい学生さん達です。
この機会は、作家の喜多川泰さんのご推薦で得られたものです。
喜多川さんは、多くの本を執筆されていますが、
本当の仕事は塾の経営です。
でも、はやくから、フォアグラ製造的な知識の詰め込みでは
不十分であると考えられたのか、「なぜ学ぶのか?」という
心の育成にも強く力を入れてくださっています。
ふだから、喜多川さんの塾の先生達も、とてもおもしろいです。
毎年のように植松電機に来てくださるのですが、
興味や好奇心、そして、感動の仕方がすごいです。
同じような反応を示す人達が他にもいます。
それは、小学校低学年の人達です。
喜多川さんの仲間は、あきらめ方を知らない子どもの心を持ちつつも、大人の頭脳と能力を身につけた人達です。大好き。

そんな喜多川さんの作ってくれた機会が、悪いわけないです。
感情表現豊かで、真剣な学生さん達。
質疑応答の時間にも、沢山の手が挙がります。
懇親会でも、遠慮しつつも一生懸命に話しかけてくれます。
とてもいい生徒さんでした。

ということは、当然、先生も良いわけです。
いい人達でした。

未だかつて、先生と生徒の資質が全く違う、というケースは見たことが無いです。
人間的に素敵な先生の生徒は、間違いなく人間的に素敵です。
その逆に、人間的に「?」な先生の生徒は、やはり人間的に「?」です。
生徒は、間違いなく、先生を写す鏡です。

今回、専門学校の仕組みや取り組みも大急ぎで見せていただきました。
素晴らしいです。
子ども達を社会人にするのだ。
企業や社会を支える人間にするのだ。
という強い意志を感じました。

受け皿となる企業や市場をしっかり調査し、
求められる人財をしっかり把握し、
それに向けて教育プログラムを作り、施設を用意しています。

僕は常々、義務教育とは日本人を作るために国家が国費を投じて行う教育事業だと思っています。
心ない保護者が教育の価値を無駄だと言っても、
それに負けずに、教育の価値を子ども達に伝え育成するのが、
「義務」教育だと思います。
しかし、現在の義務教育で、中学校を卒業した段階で、社会人として働けるような能力を持っているでしょうか?
単なる高校進学予備校と化していないでしょうか?
それは、国費を目的外に使っていることになります。

僕が高校生の時には、先生は進学先に明確なランク付けをしていました。
(1)国立四年制大学=すばらしい
(2)私立4年生大学=がんばれ
(3)短期大学=まあよし
(4)専門学校=お前は頭よくないからなあ
(5)就職=理解できない
これを先生が進路指導で生徒に言ってしまうものだから、
生徒も「俺頭よくないから専門学校しかいけないんだよね」と
平然と自虐的に言ったりしました。
でも、こんなランク付け、本当にくだらないです。
なんの根拠も無い、馬鹿げた差別です。
これは、高校の評価、自分の評価だけを意識した、
とても悲しい「For me」の考えです。
こういう先生は、生徒が進学後にどうなったのかなんて、
まったく興味ありませんし、調べもしません。

原始時代に生まれた人も、
江戸時代に生まれた人も、
明治時代に生まれた人も、
現在に生まれた人も、
生まれた時はおんなじ赤ちゃんです。
でも、そのあとが大違いです。
生きていくために覚えなければいけないことが桁違いに増えています。
ということは、おしえ方にも工夫が必要です。
もっともっと密度を上げて、社会人として必要な能力を伝えるべきではないかなと思います。

僕は、社会人になってから、微分積分を再び必要としました。
でも、高校の時の知識なんかでは、全く足りません。
自分で本を買って勉強しなおしました。
だとしたら、高校で微分積分を学んだ時間は何なんだろう?
と思ったりもしました。

高校の先生に、
あの素晴らしい専門学校の生徒さんを見てほしいです。
そして、くだらない偏見による差別をやめてほしいです。

そして、専門学校に行ってる人達は、
決して自分を卑下しないでください。
どんな学校にいったのか?なんてどうでもいいことです。
何を学んだのか?が重要です。
大学だろうが、就職だろうが、とにかく、
「何を学んだのか?」が、個人の輝きです。

素晴らしい学校との出会いを作ってくださった
喜多川さんには、本当に感謝です。