植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

社会性の発達を伴わない知能の発達は怖い。

アルジャーノンに花束を、の作者の
ダニエル・キイスさんが今年の6月に亡くなりました。

大学生の時に、友人に紹介されて、
アルジャーノンに花束を、を読みました。

精神遅滞の青年が、脳手術によって、高いIQを得るお話です。
本人の日記風にもなっていて、
最初はたどたどしい文章が、
どんどん高度な文章になっていきます。
しかし、この手術には問題があって、知能はどんどん向上するものの、性格や感情などの社会性の発達が伴わないのです。

彼はどんどん、合理や論理にとらわれ、優しさを失います。

その姿は、まるで、僕のようでした。

会社を経営し、様々な経験を積みました。
嫌なものもたくさん見ました。嫌なこともたくさんされました。
社会は、とても性善説では語れないと思いました。
そんなひどい性悪説の社会で生き残るためには、
相手に勝たなくてはいけません。
そして、勝つためには、相手を負かす努力が必要でした。
嫌なことができるようにならないといけません。
そしてそれを、「食っていくためにはしょうがない」と
自分に納得させるようになります。

不要なものや、マイナスなものは、どんどん切り捨てます。
利用できるものは、どんどん利用します。
そこには、愛も義理もありません。
誰かと会うと、「この人の何を利用できるかな?」としか
考えなくなりました。そして、価値を感じない人は無視です。
クールなビジネスマンが形成されていきます。
会社の売り上げは増えていきます。
冷たかった銀行が親切になりました。

そんな僕が自分を取り戻したのは、
ボランティア活動です。
友達に誘われて、児童養護施設にいきました。
児童虐待でひどいめにあった子ども達とであいました。
彼らは、大人に裏切られたのに、優しく、愛に満ちていました。
でも僕は、そんな彼らを救えないのです。
いくらお金を寄付しても、児童虐待は解決しません。
その子を僕の子にしても、その子は実の親を愛しているから、
問題は解決しません。

それまで、何でもできると思っていた僕は、自分の無力さを思い知りました。
そして、自分は何のために競争相手を負かしているのかわからなくなりました。
本当は、そんなことしたくなかったはず。
僕の優しいじいちゃんは、僕がこんな人間になることを望まなかったはず。
じいちゃんが撫ぜてくれた頭は、人を陥れるために使うものではなかったのです。

僕は、自分を守るので精一杯でした。
だから、武装しました。勉強しました。相手を倒しました。
でもそれは、次の僕を作るだけのことでした。
相手を負かさずに、自分を守るためにはどうしたらいいのか
真剣に考えました。
それは、競争しないことかもしれないと思いました。
すでにこの世にあるパイを食いにいくから、
先に食ってる人とケンカになります。
だったら、自分でパイを作ったらいいのかな、とおもいました。

そう思ったら、見えてきました。
既存の金儲けは、既にこの世にある価値の分配です。
勝ち組を作るためには、負け組を作らないといけません。
価値の奪い合いです。

だからこそ、新しい価値を生み出す必要があるのではないかと思いました。
それこそが、経済の真の発展につながるはずです。

人を値踏みするなんて、実はとてもちいさなことです。
なぜなら、理解できる価値は、既知の価値だからです。
それはもう、過去のものです。
本当の価値は、未知です。だから、値踏みなんてできません。
本当の価値は、どんなことになるのかな?とわけのわからない
期待と可能性です。

僕は、いまは性善説を信じられます。
ごく一部に、信じがたい行為をする人もいますが、
きっとそうなるためには理由や原因があります。
だって、僕もそうだったのだから。
そうなれたのだから。


知能の発達に、精神や社会性の発達が追いつかないとき、
そこには、おそろしい悲劇があるのかもしれません。
では、現在の学校で、精神や社会性の発達を支えているでしょうか?
競争ばかりを与えていないでしょうか?

アルジャーノンに花束を。は、とてもいいお話です。
ぜひ、読んでみたらいいと思います。

 

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)