愛の証拠を求める相手とは距離を置いた方がいい。
自信がないと、自信が欲しいです。
人の自信は、とても弱いものです。
なぜなら、ほとんどが思い込みだからです。
だから、人は、他者から必要とされることで、
自分の自信や存在理由を見いだそうとします。
それを、恋愛でやってしまうと、悲劇になることが多いです。
自信の無い人は、自己存在理由を恋人に求めます。
恋人に、自分を最優先してくれるように、
自分を特別扱いしてくれるように求めます。
そして、愛に証拠を求めます。
連絡したら、即答せよ。
他の異性と口をきくな。
人前でいちゃいちゃできるよね。
愛してるからセックスして当たり前だろ?
そもそも、愛に証拠を求める段階でアウトです。
それは相手の愛を感じることができていない、ことの証明です。
だから、いくら愛の証拠を求めても、
自信は満たされません。
だから、愛の証拠は、エスカレートします。
エッチな写真、入れ墨、赤ちゃん・・・
そして、取り返しのつかない愛の証拠を提出してしまうと、
もう、別れることもできなくなります。
そして、別れを切り出そうものなら、
自分の自己存在理由を失いたくない人は、
必死で関係を続けようとします。
失うくらいなら、生きていてもしょうがない。
自分の死を人質に交渉をします。
失うくらいなら、お前を殺して、私も死ぬ。
相手の命さえも人質にして、交渉をします。
もう、こうなってしまっては、そこには、愛などありません。
こういう愛に陥らないためには、
まず最初に、愛の証拠を求めた段階で、距離を置くことです。
それ以上、関係を深めない努力がもっとも有効です。
愛の証拠を求める相手は、
愛しているのではありません。
自己存在理由を満たすために、愛を利用しているだけです。
自分の自信を保つために、愛を利用しているだけです。
そこには、「愛」という言葉はあるけど、愛はありません。
愛は、学ばないとできません。
愛は、本能で備わる能力ではありません。
愛は、精神の成長に伴って成長します。
赤ちゃんの愛は、してもらう愛です。
なにもできないからこそ、してもらうしかないです。
思春期の愛は、同一を求める愛です。
自分の自我の成長とともに、自分の自信が不安になって来て、
自分が正しい、自分がおかしくない、の証拠として、
同じ相手を捜します。同じ相手が嬉しいです。
でもそれは、愛の証拠です。
これは、精神的に未熟な、自信の無い人達の愛です。
そして、成熟した自信を身につけた人は、本当の愛ができます。
本当の愛とは、対価や代償を求めない、してあげる愛です。
成熟した愛とは、してもらうものではありません。
それは、夢の追い方にもとても良く似ています。
夢は、させてもらおう、してもらおう、というものではありません。
自分で追うのです。自分でするのです。
もしかしたら、本当の夢の追い方を知らない人は、
本当の愛し方も知らないのかもしれないです。
愛の証拠には、要注意です。
未熟な愛にとらえられないように・・・