植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

信じると、裏切られる。

人を信じることは、社会を構成するために、とても大切です。
でも、信じると、裏切られます。

裏切られて、怒る人もいます。呪う人もいます。
裏切られるから、信じない、という人もいます。
そういう人が増えると、社会は成立しなくなります。

裏切られる、を防ぐために、裏切った時のペナルティーを明確にする機能を「契約」が担っていると思いますが、
普通の人間関係においては、「契約」はしないと思います。
その、契約を伴わない人間関係について考えてみます。


「信じる」とは、どういうことでしょう。

「信じる」= あの人は、きっと、こうしてくれるはずだ。

と定義してみます。


「裏切られる」とは、どういうことでしょう?

「裏切られる」= あの人が、まさか、そんなことするなんて。

と定義してみます。


だとしたら、「信じて、裏切られる」という状態は、

自分の勝手な期待を相手に押し付けて、
相手が自分の思うとおりに行動してくれない。

という状態かもしれません。
これは、もしかしたら、ものすごく自分本位で身勝手な思い込みかもしれません。
僕は、これは、正しい「信じる」ではないと思います。
これは、ストーカーの元になり得る、怖い思い込みです。


では、本当の「信じる」とは、どういうことでしょう。

僕は、本当の信じるとは、
相手に、自分の勝手な期待を押し付けない。
相手が、何をしても受け入れる。
だと思います。

相手を、自分の思うとおりに支配しない。
相手を、見捨てない。相手を、見放さない。

本当の信じるとは、アガペー(無償の愛)なのかもしれません。

人間は、成長します。
そして、人間の「愛」も成長します。
愛の成長が未熟で未発達な人は、
誤った「信じて、裏切られる」を経験するのかもしれません。
そして、それは、社会を構成するのにマイナスに作用します。

ということは、社会をよりよく維持していくためには、
「愛」についての学習が不可欠なのかもしれません。

そのためにも、まずは、大人が、
なるべく正しい愛に近づくよう、心の修練をし続ける
必要があるのかもしれません。


自分の勝手な期待を押し付け、
そうしてくれない相手を怒る。
これは、教育現場や、会社の中でも、よく見かける現象です。

でもそれは、信頼ではありません。
それは、とても身勝手で未熟な支配です。
と、僕は思います。