植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

罰よりも、改善。

昨日は、町内のゴミ拾いでした。
北海道は、雪が溶けたら、ゴミがたくさん出てくるので、
春にゴミ拾いをすることが多いと思います。

なんといっても、「たばこの吸い殻」が、
ダントツの一位です。

二位は、コーヒー系飲料の空き缶。

三位は、ペットボトル。

あとは、おむつやら、水銀灯の安定器やら・・・

自動車の窓から自分のゴミを公共の道路に捨てられる、という思考が、まずもって理解できません。
ゴミをポイ捨てしてはいけない、ということを
わかった上で、ばれなきゃ大丈夫、と思ってやってるわけですから、こういう人に、「ゴミのポイ捨てをやめろよ」と言っても、
反省もなにもないと思います。

「ばれなきゃ大丈夫」という思考は、社会秩序を崩壊させるとても危険な思考です。
なぜ、この思考になるかというと、
それは、ばれた人と、ばれなかった人の、差を見せつけられているからです。

自動車で駐車違反で取り締まられた時、
「あっちの車だって駐車してるだろ!なんで俺のからさきに取り締まるんだよ!平等に捕まえろよ!」と思ってしまったら、
そこには、「法の不平等」という意識が芽生え、
そして、「自分は運が悪かった。損をした。」
やがて、「次は、ばれないように気をつけよう。」
になっていくような気がします。

学校で先生に叱られる時も、
職員室の前で正座させられている時に、
遠くから、まんまとばれないで逃げおおせた奴が
こっちを見て笑っていたりしたら、
「次は自分もばれないようにしよう」という思考になってしまうかも。

もしかしたら、そういう思考の背景には、「罰」という概念があるかもしれません。
「罰」が公平に平等に行使されない時、
「罰」は、「ばれなければ大丈夫」な存在になってしまうと思います。
そして「罰」を公平に平等に細大漏らさず提供するのは、人間がやっている限り、不可能だと思います。

例えば、駐車違反は、駐車禁止区域に自動車を止めたら、自動車自身が、停車時間に応じて自動的に罰金を課金するような仕組みになっていれば、「罰」を公平に平等に提供できるかも。
(キャンセラーを開発する奴は必ずいると思うけど。)
速度違反も、同じ方法でできますね。
そして罰金は、ETC払いにして、ETCは全員強制入会という仕組みにすれば、美味しい思いをする人は少なくないかも。

でも、学校の指導としての罰は、自動取り締まりも、自動課金もできません。
かならず、取りこぼしがあります。
あの先生は見逃してくれた。この先生はうるさい。
というのも、「罰」の不平等になります。

だったら、いっそ、学校では「罰」をなくせばいいのでは?
罰なんかよりも、再発防止のための思考や話し合いの方が、
はるかに重要な気がします。

欧米では、児童虐待をしてしまった親は、厳しい教育を受けないと、子どもと再会することができなくなっているそうです。
でも日本では、服役して「罰」を受けるけど、そこでは、児童心理学や精神的な勉強や教育は十分には行われていないようです。

安易に罰を与えるよりも、
再発を防止するために、話し合い、考えることをしっかりやれば、もしかしたら、ゴミのポイ捨ても無くなるかもしれないなあ、なんて思いながら、ゴミを拾った昨日でした。