植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

人間には優れた適応能力がある。

僕の父さんは、樺太で生まれました。

豊原の旧制中学校に合格したころに、ソビエトが侵攻してきます。
(日ソ不可侵条約を破って)

樺太の守備隊は8月11日から自衛戦闘を行いますが、
8月15日以降は停戦の努力をします。
しかし、8月20日には、真岡に上陸したソビエト軍が市街地に到達し、日本軍がいなかったにもかかわらず、軍服とよく似ていた国民服を着ていた一般市民を攻撃してしまいます。
ようやく全域が占領された頃には、一般人が約3700人が犠牲になっていたそうです。

その後、父さんは、北海道に渡り、
余市でしばらく過ごしたそうです。
そこから、避難民対策として急激に拡大した石炭採掘地域に移り、そこで電気の知識を身につけます。

最初は、炭鉱で使う電動機械の修理の仕事を学び、
やがて独立します。
最初の会社は、自分の手で整地して、建物を建てたそうです。

でも、太平洋戦争の最中から、すでに石炭から石油への移行はとっくに進んでいて、満州樺太からの引き上げ者対策が一段落したら、あっというまに、石炭産業は縮小されます。

炭鉱の機械修理の仕事がなくなったため、
父さんは、普及し始めた自動車の電気装備品の修理の仕事をします。当然、教えてくれる人がいない中での、手探りの仕事だったと思います。

でも、部品を修理する仕事は、中古部品の流通がよくなったために、どんどん減っていきます。

そこで父さんは、普及し始めた油圧ショベルなどの、油圧ホースを修理する仕事を始めます。
四輪駆動の大型のバンに、油圧ホース加工機械など一式積んで、山奥の油圧ショベルのすぐそばまで行って修理するという、この地域では誰もやっていないサービスを考え出します。

でもそれも、公共事業の激減に伴い、どんどん減ります。

しょうがないから、僕と父さんは、リサイクル用のマグネットを作ります。

というように、僕の父さんは、人生において、何度も、せっかく身につけた仕事が消え去るのを経験しています。
しかし、そのたびに父さんは、それまでの仕事で得られた経験や知識を活かして、ちがう仕事を始めます。

そして、現在82歳の父さんは、いまだに作業服を着て、工場で何か作ってます。
そんな父さんは、「オレは、一生、一つの仕事しかしてこなかった!」と胸をはって言います。
父さんのしてきた唯一の仕事は、「よりよくの追求」だと思います。

時々、不景気になったり、急激に仕事がなくなるときに、
「オレは、この仕事しかしてこなかったから、いまさら他のことなんてできない。」と嘆く人の声を聞きます。
僕は、その嘆きも理解できますが、でも、「他のことが出来ない、なんてことはないよなあ。」と思います。

地球は回る。太陽系も回る。季節も変わる。社会も変わる。
永遠に同じ日が続くなんてことはあり得ないです。
だからこそ、その変化に適応し対応する能力が、生物には備わっています。
特に人間は、その変化への適応能力が高かったから、こんなに広く世界中で繁殖できています。

だから「おれはこれしかできない」と思わない方がいいです。
過去の経験を活かして、新しいことをやったらいいです。
人間には、その能力が備わっていますから。