植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

自信を奪う行為は暴力です。

人は生きていくために自信が必要です。
でも、自信は、お金では買えません。
人を見下したり攻撃したりしても増えません。
一人ぼっちで守れるものでもないです。

自信は、気をつけないと、何歳になっても減ります。
かなり簡単に失われます。

もっとも効果的なのは、思考や行動の否定です。
自分で頑張って考えたことがまちがっていると否定されると、
自分を信じられなくなってしまうことがあります。
良かれと思ってやったことを否定されたときも、
きっと、自分で考えて行動するのが不安になると思います。

だから、僕は、人の意見は尊重すべきだと思うのです。

もちろん、ビジネスなどで利害関係にある場合は、
間違った行動は双方にとって損失になることがあります。
でもその場合も、自発的行動自体を禁止すべきではなく、
誤った判断につながった情報不足を改善する工夫が必要です。

ましてやそれが、ネット上の見ず知らずの人となれば、
利害も何も関係ないです。
わざわざ他の人のサイトに行って、批判や否定をする人が、
どういう気持ちでするのかわかりません。

相手の間違いを正してやろうという親切心ですか?
でも、それが本当に法規的に違反してるようなことの場合はともかく、基本的には思考も言論も自由のはず。

相手の意見が不愉快だから、不愉快だ、とぶつけるのですか?
ぶつけてどうしますか?
相手が謝罪して、記事を直せばいいのですか?
「おめえの顔が気に入らねえんだよお!あやまれよお!」と、いちゃもんつけてる人たちを昔はみたことがありますが、同じような精神構造でしょうか?

DV防止講座で習いましたが、DVの状態につながりやすい事例として、こんなのを習いました。
彼氏と彼女が喫茶店に行き、コーヒーを飲むとき、
彼女はミルクと砂糖を入れました。
すると、彼氏は、「なんだよそんな飲み方!コーヒーの味がだいなしじゃん!そんな飲み方やめろよ!」と怒りました。でも、彼女は、その飲み方が好きなのです。
このときの、彼氏の怒りは、彼女を尊重していない行動だそうです。
もちろん、自分が違う意見を持つのも、
自分はそうは思わない、と思うのも自由です。
でもそれを、相手の思考や行動を強制的に偏向させるために用いると、それは暴力になるかもしれません。
このパターンがエスカレートすると、
DVをしてしまう人がよく言う「しつけと称した暴力」という形になってしまうこともあるそうです。

残念ながら、日本では、保護者も先生も、「尊重」を学んでいないことが多いです。
だから、保護者も先生も、子どもに対して、理不尽に行動や思考を強制してしまうことがあります。
少なからずの子どもたちが、「我慢とは、あきらめること。口ごたえしないこと。望まないこと。」と思い込まされています。
でも、あきらめたりやめたりして、自分のいる場所を譲っていったら、最後には、この世に生きる場所がなくなります。

人は生きていくために自信が必要です。
その自信を奪う人が少なくなったらいいなあと思います。
そのためにも、特定の人に向けた自分の意見の意味について、もう少し考える人が増えたらいいと思います。
「自分はなんのためにこのコメントを書くのかな?」
間違いを正そうとする親切心ですか?
相手の意見が不愉快だから、不愉快だとぶつけて、
相手に謝罪させたいのですか?
もしも、自分は違う意見だなあ、と思ったら、
自分のサイトで公表すればいいだけです。
それを考えたら、もう少しネット環境は自由になると思います。

ちなみに、僕がfacebookの記事を書くのは、
僕のところに届く、たくさんの、理不尽な暴力で悲しい目にあった人達からのお手紙への返事が元になっていることが多いです。
僕に手紙をくれた人以外にも、同じ目にあってる人がいるかもなあ、そういう人が読んだら少し楽になるかも、と思って書いています。
だから、僕の記事への批判的なコメントに、僕がムキになって立ち向かってしまうのは、僕の記事の向こう側にいる、悲しい目にあった人を守りたいからかもしれません。
大人気ない対応をしていると、自分でも思います。