知識は対価を必要としないはず
僕は、懇親会などで盛り上がってるとき、
「よく、なんでも知ってますね」と言われます。
何でも知ってるわけじゃないです。
でも、好きなものは、調べてしまいます。
たとえば、僕はフェラーリのF40が好きです。
好きになったのは、つい最近です。
グランツーリスモという車を運転するゲームの中に、かっこいい後ろ姿のフェラーリがいたのです。すんごくかっこいいけど、たいして速くなかったです。
何度も追い越しました。だんだん、あのメッシュで、ドカンとワイドな後ろ姿が好きになりました。
そして、乗ってみました。(ゲームの中でね。)
いや、ひどい車です。速くないわけがわかりました。
直線でもスピンできます。
しかし、しつこく乗ってるうちに、だんだんコツがわかってきました。そうしたら、すごく速い車でした。
あの、氷の上を走るがごとくの、安定性の無い感じ・・・
でも、うまくきまると、速い・・・
に、すっかり見せられてしまいました。
となると、本を読むわけです。
かたっぱしから、F40の本を読みます。
だから、知識が増えていきます。
先日は、ランボルギーニ・ディアブロに載せていただきました。(今度は本物でした。)
で、現在、ディアブロにどっぷりはまってます。
沢山本読んでます。
僕は、「本」のすごさを知っています。
そこには、人類の努力と命が詰まっています。
それを、わずかなお金で、身につけることが出来ます。
僕は、子ども達に、
「わからないときに、「わかんなーい」と言ってるだけじゃあ、わからないまんまだよ。わからなかったら、調べればいいだけだよ。」と話します。
寒い日に、いくら「寒い」とぼやいても、暖かくなりません。
それと同じです。
いくら「わかんなーい」「わかんねー」と言ったって、
永久にわからないです。
わからなかったら、調べればいいだけです。
僕が好きな人は、みんな、広く深いです。
みんな、知りたがりです。
「わかんねー」を放置しない人たちです。
そういう人と、お酒を飲むと楽しいです。
だって、僕が知らないことを知ってるんです。学べます。
それは、とっても楽しいことです。
僕は「ヘウレーカ!」の喜びを知っています。
その喜びを奪う言葉が
「そんなことおぼえてどうすんの?」
「そんなこと知っていてなんになるの?」
です。
え〜?「知識」って「対価」とセットじゃ無いと、持つ必要ないの?
「対価」がもらえないと、知識を得たら損するの?
でも、そういう認識の人は少なくないです。
もしかしたら、「勉強」=「いい会社(対価)」と教えられてしまった人たちかもしれないです。
受験勉強が、あまりにも過去問題丸暗記になってしまったために、知識や教養や学問と、全く別物になってしまっているのかもしれません。
もしもそうなら、ちょっと、残念な気がします。