植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

道具を武器に変えないために。

鉄砲も、包丁も、バットも、ゴルフクラブも、スパナも、
果物ナイフも、ごつい灰皿も、車も、自転車も、人を殺せます。
でも、それらは、別なことに使えば、その真価を発揮できます。

道具を武器に変えてしまうのは、使う人間の心だ。

というのは、よく聞く話です。まったく同感です。

で、実は、人間も人を殺せます。
パンチもキックもそうですが、言葉も人を殺せます。

だから、自分がどっち側の人間なのか、考えた方がいいです。

人を、殺す側なのか?殺さない側なのか?

普通の多くの人は、包丁で人を刺さないでしょう。
バットで人を殴らないでしょう。
でも、言葉で人を傷つけることは、意外と出来てるかも。

包丁で人を刺したり、バットで人を殴ったりしたら、
血が出たり、怪我をしたり、目で見てわかります。
それを想像できると、殴ったり刺したりしようと思わないかもしれません。

でも、言葉が相手をどう傷つけたのかは、目で見えないので、
イメージがわきにくいです。
だから、抑止力が作用しにくいのかもしれません。

ましてや、
語気を荒げたり、くってかかったり、怒鳴ったり、叫んだり、なんてのは、もう確実に、相手に対する攻撃です。
それが出来てしまう人は、もしかしたら、道具を武器に変えられる人かもしれないです。

でもきっと、それは、人間全員が内包するものです。
なぜなら、僕らは、基本が「アニマル」だからです。
僕らの脳みその奥深くには、恐竜の脳みそも残っています。
猛獣の脳みそも入っています。
それらは、食うか食われるかの時代の脳みそです。
でも、その外側に、人間の脳みそがあります。
だから僕らは、共食いしないのだと思います。
でも、人間の脳みそを捨てて、心を野生の感情にまかせたら、
きっと、共食いや殺し合いできてしまうと思います。

だからこそ、人間は、感情を抑制して、一呼吸おいて、思考する必要があるのだと思います。
ただし、感情の抑制とは、自分の心を殺してがまんすることではありません。
アドレナリンに支配されない、ということです。
いらっときたときにこそ、暖かいお茶を飲んだりとか、
美しい景色を見たりとか、大好きなものの写真を見たりとかで、
まずは心を落ち着けるのがいいと思います。
(アメリカでみたオフィスには、個人個人の家族の写真や趣味の品が並べられていました。もしかしたら、それは、いらつきを押さえる効果があるかもしれません。)

その上で、よりよくを求めて思考したら、僕らは人間になれるのだと思います。

日本で、オフィスの机の周りが趣味の品で飾られていても、
それが批判されないようになったらいいなあ、と思います。