植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

「差別」を生み出すのは、暗記の知識量と正確さを競うテストのおかげかも。

僕は、子どもの頃に、「みにくいアヒルの子」というお話しと出会いました。たしか、小学校の道徳に時間に、紙芝居で見たような気がします。
クラスのみんなが、「自分と違う」だけで攻撃するアヒルたちを、
「ひどいことをするなあ」と思いました。
でも、現実には、「自分と違う」を攻撃する子はたくさんいました。先生さえもそうでした。
 
「差別」は、身近にあります。
 
性別だったり、国籍だったり、住まう地域だったり。
そして、もっとあいまいなことでも、差別はおきます。
 
努力をしていると、「よーやるわ」「できるわけもないくせに」「そんなことして、意味なくね?」とバカにされます。
努力が実ったら「うまいことやりやがって」と妬まれます。
とても残念なことに、努力が「むだなこと」や「ずるいこと」と言われます。
そう言う人達は、努力をしない人達です。
彼らは、自分と違う人を攻撃しています。
 
この原因は、保守だと思います。
先の記事にもつながりますが、
自分が「わかる」範囲のことしか認めず、
自分が「わからない」ことを、「おかしい」「へんだ」と否定する考え方は、簡単に「差別」を生み出します。
 
わからないことを、否定し、拒絶するのは、危険です。
大事なのは、わかろうとする努力だと思います。
自分と違うことを、受け容れ、理解しようとする努力です。
 
外国の方が、たどたどしい日本語で話すとき、
僕らはそれを、理解しようと努力するはずです。
かなり間違った文法であっても、理解しようとしたら、
つながりあうことができます。
 
ところが、そのたどたどしい日本語を、
「ちゃんとしゃべれ!」「なにいってんのかわかんねーよ。こいつバカじゃねーの?」と見下したら、つながりあうことは不可能です。
 
人と人とが、つながりあうためには、
自分とちがうことを、受け容れ、理解しようとする努力が不可欠です。
でも残念ながら、「わからない」=「ダメ」という価値観を与えられた人達には、それができません。
 
実は、暗記の正確さと量を競う教育では、「知らない」「わからない」は「ダメ」という価値観になってしまいます。
そうなると、「知らない」ことを否定しなければ、自分を守れません。これが、やがて「差別」につながります。
 
残念ながら「学力」を「定量評価」しようとすると、
かならず「点数」が必要になり、それを容易にするのが、
「暗記の知識の量と正確さを計る」になってしまいます。
でも、考えてみたら、社会人になったら、テストなんてないです。
なんで、社会では必要としていないことを、学校でやるのかな?
それは、「先生がちゃんと仕事をしましたよ」「学校はちゃんとおしえましたよ」という「お役所的証拠」のためだったりして。
もしかして、子ども達のためじゃないのかも?
 
僕は、テストなんてなくたって、子ども達は成長することを知っています。
そして、テストのおかげで、勉強が嫌いになってる子がたくさんいることも知っています。(僕もそうでした)
(テストでいい点数をとることでやる気が出る、という意見ももちろん理解しますが、誰かを負かして得られる自信は、自信ではなく、優位的満足にすぎません。そういう人は、社会に出てからすごく苦しみます。なにせ、誰かに勝たないといけないから。)
 
でも幸いに、もうじき、暗記の知識量など競わなくなります。
ゆくゆくは、士郎正宗氏の描く攻殻機動隊の世界のように、
あらゆる情報とオンタイムでリンクできるようになったら、
暗記の知識量など、無意味になります。
そういう世界では、「差別」はなくなるかもしれない、と僕は思います。