植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

良い評価を求めたとたんに、評価する人の奴隷になるよ。

僕は、すべての人が、あきらめ方を知らないで生まれてきていると思っています。
すべての人が、素晴らしい可能性にあふれて、光り輝いて生まれてくると思っています。
だから、人の命は大切です。
 
もちろん、人以外の命も、素晴らしい可能性をもっています。
 
昔から、うちの家では、犬を飼っています。
僕も小さい頃から、家族として犬が一緒にいました。
一番記憶に残っているのは、僕が小学生の頃に一緒にそだった犬です。ラブラドールの雑種だと思いますが、とても穏やかな優しい犬でした。
 
でも、残念ながら、犬の寿命は人より短いです。
だから、僕より先に死んでしまいます。
子ども心に、犬の死は、すごい衝撃でした。
でも、その犬の死から、僕はきっと、多くを学んでいます。
なぜなら、悲しいから、沢山考えるからです。
 
もっと優しくすれば良かった。
もっと一緒にあそべば良かった。
もっといたわれば良かった。
キリが無いです。
 
だからこそ、いっぱい学ぶのだと思います。
 
人間も同じだと思います。
どんな人の命にも意味があります。
 
でも、その意味は、本人にもよくわかりません。
もちろん、他人にもよくわかりません。
わからないけど、関わった人達は影響を受けます。
その影響とは、「意味を考えて自分の人生に活かした」結果のような気がします。
 
でも、意味を考えられない人達は、
おそらく、自分の命の意味も、他人の命の意味も、わからないと思います。
だから、簡単に自分をあきらめます。他人のこともあきらめます。
それは、「意味を考える能力」が足りないからです。
それはきっと、おそろしいことです。
 
以前、障がいのある方達を、「社会にとってマイナスだ」として、
大勢を襲った人がいました。
彼はおそらく、意味を考えることができない人なのだと思います。
 
アドルフ・ヒトラーも、「価値のない命」という表現をつかったといいます。そして、大勢を殺しました。
でも、価値は、一方的に決めるものではないです。
ある特定の価値基準に足りないからといって、その存在を否定するのはおかしいです。
でも、僕もそれをされてきました。
目が悪くて球技が苦手な僕は、体育の時間がとてもつらかったです。
先生までもが、僕の滑稽な行動をみて笑いました。
でも、僕の得意だった、自転車や、山登りは、学校の授業になかったので、まったく浮かぶ瀬がなかったです。
僕は、計算が大好きでした。パソコンでプログラムを組んで、自動車や航空機の運動を解析しようとしていました。
でも、当時の授業には、パソコンはありませんでした。一部のマニアの暗い趣味程度にしか思われていなかったので、その価値は否定されました。
中学校に入ったら、学校の成績に関係の無いことは、無価値だと思う人がすごく増えました。
だから、僕の好きなものの価値は、どんどん下がりました。
 
そういう世界では、「だれかにどれだけ評価されるか」が、とても重要になった気がします。
だから、「自分の意志」よりも「他人からどう思われるか」の方が重要になってしまったような気がします。
その結果、多くの人が、興味も、好奇心も、思考力をも失っていくように感じました。
 
そしてそれは、きっと、おそろしいことにつながる可能性があります。
命の価値がわからなくなるかもしれません。
 
学校という閉じた世界で、受験という閉じた価値観で、
人生をゆがめてしまう人は少なくないです。
でも、忘れないで欲しいのは、世界はとっても広いと言う事です。
学歴も成績も他者評価も、人生を決定しません。
良い評価を得よう、とおもったら、たちまち、評価する人の奴隷になります。
 
重要なのは、自分がどう生きるかです。
僕はそう思っています。