植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

強制的な競争で得られるのは自信ではなく優越感じゃない?

僕は、小さい頃から、あんまりほかの人とは比べられなかった気がします。
というか、おそらく、かなり変わった子どもだったから、
あきらめられていたような気がします。
僕自身、運動会も、テストも、勝つための努力をしたことがなかったです。ありのままにでした。
 
でも、中学校に入ると、比べられました。
成績で順位をつけられました。
先生は、順位が上がった子を褒めました。励ましました。
それでがんばれる人もいました。
僕は、がんばれませんでした。
 
高校に入っても、変わりませんでした。
でも、無理矢理進学コースに行きました。
その段階では、大学に行くかどうか考えていませんでした。
航空自衛隊に行こうかと思っていました。
その理由は、基本的には、同じ学費を払い、同じ時間をかけるなら、沢山学んだ方がいい、と思ったからです。
でも、進学コースを希望したとき、先生に
「お前は、10聞いても1しか覚えないんだから無理だ」といわれます。
でもそれが、僕の考えを肯定しました。
「だったら、100聞いたら10覚えるってことじゃない?」
そして、進学コースでは、今まで以上に比べられました。
そのとき、成績が近い友人がいました。
その子に、「今回難点だった?」「今回何番だった?」と聞かれ、勝ったの負けたのと笑いあうのはおもしろかったです。
でも、彼を負かそうとか、彼に勝ちたいとか、彼に負けて悔しいとかは感じませんでした。
 
僕の心の中には、いつも「僕は僕だもん」がある気がします。
 
なぜ僕が、比較にとらわれなかったのかを考えてみました。
おそらく、学校の与える勉強や活動よりも、
もっと好きなことがあったからです。
誰かに成績で勝つことよりも、自分の自転車がもっと速くなるとか、前回うまくいかなかった工作がうまく出来たとか、
そういう喜びを知っていたからだと思います。
 
誰かと自分を比べることで得られるのは、自信じゃないです。
それは、優越感です。
でも、大人の中には、子どもに自信を与えようとして、競わせる人がいます。でも、それで得られているのは、自信じゃないような気がします。
 
優越感が自己存在になってしまったら、
自慢をしないと安心できなくなります。
それが、ママカーストなるものを生み出したり、
パワハラにつながったりしてるケースを何度も見てきました。
悲しいのは、優越感が自己存在になってる人達は、
そういう群れから抜け出せません。
なぜなら、その群れの中では、自分が信じる価値観に価値があるからです。だから、その群れの中では、自分以下も見つけられるからです。
特に簡単なのは、「年齢」です。
「年長者を敬え」を優位性として活用すると、
毎年、自分以下が群れに参加してきます。
「若いくせに」「知らないくせに」「経験もないくせに」などなどの、「新人」が勝てっこない条件で優位を得ます。
それは、新人いびりというパワハラになります。
それをやってしまうのは、「優越感が自己存在」になってる人かもしれません。
 
もちろん、「年長者を敬え」というのは、僕も意識します。
でも、僕が意識するのは、「みんなを尊重する」です。
そして特に、困ってる人や弱ってる人を大切にしようと思います。
お年寄りや子どもや、妊婦さんや、怪我をしてる人に椅子を譲るとか、荷物を持つとか、ということには気を付けています。
でも、健康で元気そうな人が「年長者を敬え」なんていうのには、
違和感を感じます。
「俺を尊敬しろ!」「俺を大切にしろ!」なんて、たいていの場合は、映画や漫画の悪役のセリフです。
大事なのは、「みんなを敬う」「みんなを尊重する」だと思います。
年齢で優位性を変えないで欲しいです。
 
僕が、誰かと比べることを自己存在にしなくてすんだ理由は、
じいちゃんかもしれないです。
じいちゃんが「つとむはやさしいねえ」「つとむはものしりだねえ」と褒めてくれたことを、なんとなく覚えています。
そこには、「だれかより」がありませんでした。
そこにあったのは「もっと」や「モア」だった気がします。
それは、自分との戦いです。
もっとやさしくなれないかな。もっと沢山知りたいな。
 
じいちゃんとお別れしてから、44年もたってしまったけど。