植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

人を値踏みするのは、世界を小さくする行為。

今から、16年ほど昔、マグネットの仕事を必死でやってる時代の僕は、人と出会うと、「この人は僕にとって、どんなメリットがあるかな?」「この人は、どう利用できるかな?」と考えていました。
僕の基準で、僕にとって役にたつかどうかの値踏みをしていました。
そして、役にたたないと思ったら、関わりませんでした。
僕はそれを、合理、だと思っていました。
でもこれは、とてもさもしい考え方だったと思います。

僕は、やがて、児童虐待を無くしたいと思うようになります。
その頃に、永田先生に出会えました。
そのとき、僕は、「この永田先生のロケットエンジンが実用化できたら、きっと、宇宙は手の届かない場所じゃなくなる。いままでは、宇宙は、不可能の象徴だったかも知れないけど、このエンジンがあれば、夢をあきらめない象徴になるかも。これは奇跡のエンジンだ。」と思いました。
そのとき、僕は、永田先生のカムイロケットエンジンを、自分ならどう支えられるのかを考えました。

そのときから、人の出会いが変化しました。
僕は、沢山の素晴らしい人と関われるようになりました。
というか、それまでも、そういうチャンスはあったのだと思います。
でも僕が、それを値踏みして台無しにしていただけです。
他人を値踏みすると言うことは、この素晴らしい世界を、自分の理解の範囲内に閉じ込めてしまう行為でした。

僕は、中学生の頃に、アドルフ・ヒトラーさんの「わが闘争」を読みました。
その本の中で彼は「価値のない命」という表現を使っていました。
でも、その「価値」とは、彼の判断です。
誰かを、「こいつらは、役にたたない。無価値だ。」と決めつけるのは、
僕がやっていたことと同じだった気がします。
でもそれを、現在もやってる人は少なくないです。他人に対しても、自分に対しても。

人間ほどわけわからんものはないです。
だからこそ、奇跡が沢山隠れていると思います。
だから、人と出会ったときは、「どう利用できるかな?」ではなく、
「どうやったらもっとよくなるかな。」を考えたらいいと思います。
それは、きっと、奇跡を連鎖的に生み出します。
そういう経験をしたことがある人は、きっとうなずいてると思います。
そういうのって、ありですよ。
だまされたと思って、人の見方をちょっと変えてみたらいいんじゃないかなと思います。