植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

恐怖と苦痛と侮辱という罰は与えてはいけないと思う。

天誅」という言葉があります。
幕末のドラマなどで、よくつかわれてる気がします。
でも、「天誅!」と叫びながら、人斬ってんのは人間だよなあ。
それって、天誅なのかなあ。

僕は子どもの頃、いろんな大人から罰を与えられました。
特に、小学校の先生からは、酷い罰を与えられました。
その罰は、恐怖と苦痛と侮辱でした。

僕は、忘れ物が多かったです。だからいつも怒られます。
それでも忘れるから、怒られるのはエスカレートします。殴られます。でも忘れます。
やがて、担任の先生が替わりました。
その先生は、「忘れ物をしないためにはどうしたらいいかな?」と考えてくれました。
そして、僕にチェックリストというものを教えてくれました。
それだけで僕は、忘れ物をしなくなりました。
あんだけ、怒鳴られて、侮辱されて、殴られていたのが、バカみたいです。

生徒は嘘をいうこともあります。本当の事を言えないこともあります。
だから時には、先生の間違った状況認識に基づいて怒られることもありました。
あとから間違いに気がついても、先生は謝りませんでした。

いま、僕は、人は人に罰を与えるべきでは無いと思っています。
特に、恐怖と苦痛と侮辱という罰は、使ってはならないと思います。
なぜなら、人は間違いを犯すからです。
間違った判断に基づいて罰を与える可能性があるのは危険です。

昔から、正義は難しいと思われていたと思います。
古くから、正義の象徴は「天秤」です。バランスです。
そのバランスを完璧にとれるのが、正義なのだと思います。
でも、人間は、残念ながら、そのバランスを完璧にとるのは難しいです。
だから、裁判には、多くの人手をかけます。大勢が判断することで、
平均化を図るのだと思います。

すなわち、個々人の判断に基づく罰は、もっとも危険ということです。
ネット上で、不愉快で、納得できない意見を見つけたから、みんなのために攻撃する。
クラスで、授業の進捗の妨げになってる「とろい奴」を、みんなのために攻撃する。
職場で、ミスばかりしてる人を、みんなのために攻撃する。
これは、みんなのため、といっていますが、そのみんなとは、たいていの場合、
とても狭い範囲の人達です。下手したら自分だけです。
自分だけの思考を、さも大勢の大義であるかのように表現するのは、
「ロイヤルウィー」とよばれますが、
「みんなのため」という大義名分があるときの罰は容赦ないです。
時には、みんなの反応で盛り上がったり、英雄的な行動のアピールとして、
増長する傾向もあります。
そこにはもう、正義はないと思います。

この状態を改善するのは、容易です。
罰を与えなければいいだけです。
問題があると判断したら、問題を起こす人をつぶすのではなく、
問題を改善する為に、まずは、管理できる人間に相談すべきです。
それだけで、たとえば、ネットに於ける「炎上」という現象はおきなくなると思います。
でも、学校の担任の先生に相談しても、その人が解決できないこともあります。
ときには、先生自身が私的制裁の原因だったりすることもあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
でも、教育委員会もなにもしてくれないこともあります。
そのときは、もっと先まで手を伸ばすべきです。
だいじなことは、絶望しない(あきらめない)ことです。
自分の目の前の狭い世界だけがすべてではありません。世界は広いです。

もちろん、「罰」と、「損害の補償」を一緒に考えてはいけません。
時々「損害の補償」に「罰」が盛り込まれることがありますが、
それは、たいていの場合、ろくな結果にならないです。
第一次大戦後に、連合国がドイツに課した制裁的保障金を思い出すといいです。)

人は、正義にはなれません。
だから、人は、人に、罰を与えてはいけないと思います。
罰ではなく、問題の解決と、再発の防止を考えるべきです。
安易に罰を与えると、もしかしたら、巡り巡って社会の秩序が崩れるかもしれません。
だから、教育や指導に関わる人は、「罰」について、深く考えた方がいいと思います。
恐怖や苦痛や侮辱によって学習させようとするのは、文明的ではないと思います。