植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

命令なんて、〇そ食らえ!(おっと、汚い言葉を使ってしまった。)

僕の会社には、部と課と役職がありません。
なぜなら、命令をする者も、命令を聞く者も、危険だと判断したからです。
 
命令は、決まり切ったことや、想定の範囲内のことをやるときには有効です。
しかし、柔軟性に欠けます。
 
それは、たとえるなら、
ゲームをやりこむと、体や指ががキーの位置などをおぼえます。
すると、考えなくても、反射的にキーを操作できるようになり、スコアが向上します。
おそらく、行動は、繰り返しの練習によって、
「思考」ではなく「脊椎反射」にまでもっていくと、
処理速度が速くなるのだと思います。
しかし、ちがうゲームをやったら、まるでうまくいきません。
という現象に似ているかも知れないと思います。
 
また、命令では、人は100%の力を発揮しません。
「余計なこと考えないで、言われたことを、言われたとおりにやればいいんだ!」
という言葉で、やる気と情熱がかき立てられるような人は、よほどのM体質だと思います。
 
仕事のモチベーションに関して、3人のレンガ職人というたとえ話があります。
レンガを積んでいる人に、何をしているの?と尋ねたら
1人目:見ての通り、レンガを積んでいる。もっと楽な仕事がしたいよ。
2人目:壁を作っている。この仕事のおかげで家族が食べていける。
3人目:図書館を作ってる。多くの人がここで沢山学ぶんだ。
と答えた、という話です。
「なぜやるのか」「なんのためにやるのか」がわからないと、仕事のモチベーションが上がらないよ、という話だと思います。
だとしたら、
「余計なこと考えないで、言われたことを、言われたとおりにやればいいんだ!」
なんて言葉では、人の力を引き出すことはできないと思います。
 
僕は、命令ではなく、「相談」と「お願い」と「感謝」でいいと思っています。
「相談」とは、現状を説明し、問題を解決するために、お互いで方法を考える事だと思います。
「お願い」とは、その上で、自分にはできないことを、助けてもらえるように頼むことだと思います。
「感謝」とは、助けてくれた相手に対して、まともな人間なら自動的にすることだと思います。
 
それに対して、
現状もなにも説明せず、命令だけして、感謝もしない。
では、まもなく誰も助けてくれなくなるでしょう。
 
僕は、僕の能力が高くないことを知っています。というか、ひとりでできることは、なんぼ頑張っても1人分でしかありません。
無理して徹夜とかしたら、瞬間的には仕事量は増えるけど、翌日の思考力は半分以下になり、間違った判断をして、逆に仕事を増やしてしまうことを、僕は知っています。
 
だから、僕は、助けを求めます。
だから僕は、僕の会社で働いてくれる人達を、「社員」「従業員」とよばないです。
僕の「仲間」です。「仲間」には、命令しないでしょう。
「仲間」は互いに尊重し合うべきです。
 
でも残念ながら、日本では、学校でも、
「命令の仕方」「命令への従い方」をたたき込まれます。
先輩や先生の言うことは絶対。
命令にはしたがうもの。
校則も絶対。疑問など感じる方がおかしい。
を、本気で教える先生がいます。
それは、命令をするものにとっては、都合のよい仕組みです。
でも、それでは、人は力を発揮できません。
それが、単位労働時間あたりのGDPの低さの原因かも。
 
あの軍人勅諭のなかにさえ、上級のものは、下級のものを軽んじたり、侮ったりしてはいけない。務めて懇ろに取り扱い、慈しみかわいがり、上下一致して事に当たるべし。と書かれています。
(これに関しては、1940年に製作された、西住戦車隊長伝という映画がおもしろいです。
ひたすら部下を大切にしちゃう西住隊長。今の目で見ても、甘すぎるのでは?と思えるほど。
そういう映画が、太平洋戦争直前に、軍の協力のもとで作られたことに驚きを感じますが、いろんな人の本を読むと、日本が戦争に負けはじめてから、やたらに怒鳴り殴る教官が増えたそうです。おそらく、戦争末期、徴兵された若い人達は、そういう無茶な教官にであってしまい、そして、戦争に出る前に戦争が終わって、生き延びた人達が、その間違った教育を、社会に復帰してからも使ってしまったのだろうなあ、と僕は思います。)
 
僕は、「余計なこと考えないで、言われたことを、言われたとおりにやればいいんだ!」には
断固抵抗します。
僕は、人間として、仲間を尊重します。
相談と、お願いと、感謝で、人はすごい力を発揮できることを、僕は知っています。