植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

キレイじゃないけど、劣っていない。

僕は、テレビをほとんど見ないです。
特に、最近の地上波は、見るための時間と、得られる成果の割合がどんどん低下している様に感じられるので、ほぼ見ません。
(例外は、先日も紹介した、ニッポンへ行きたい人応援団と、NHKスペシャルとか。)
 
アニメも見ますが、シーズン中は見ないです。
全部録画が終わってから、あらためて見る。という感じです。
ですから、そもそも録画しなくて、見ないで終わってしまうのも多い。
 
そんな中で、ようやく昨日、海月姫というのを見ました。
 
容姿に自信のない人達が登場するアニメでした。
 
そのなかで「恋をするとキレイになるっていうけど、恋をしないとキタナイままなの?」というような表現があり、驚きました。
 
キレイの反対は、キタナイなのか・・・。
最初はキタナイのか?
 
赤ちゃんや幼児を見たら、たいていの人は、可愛いと思うはずです。
それが、いつから、キレイとかキタナイとかになるのかな。
そもそも、その基準はなんだ?
 
このお話しの中では、手足が細長い。色が白い。目が大きい。などが、キレイの基準としてでてくることがあります。
たしかに、そういう価値観はあると思います。
じゃあ、手足が細長くない人はキタナイのか?
色が白くない人はキタナイのか?
目が大きくない人はキタナイのか?
 
おそらく、キレイとか、カワイイというのは、
ある時代の、ある価値の基準となる閾値を超えている状態を示すだけの言葉なのかもしれません。
すなわち、「自分はキレイという基準を満たしていない」であっても、「自分はキタナイ」ではないのだと思います。
キレイではないけど、それは、劣っている、ではないです。
 
僕は目が悪いから球技が苦手です。
だから、中学や高校でスポーツの成績で評価されたら、僕はすごく劣っていました。
でも、僕は工作が好きです。工夫が好きです。
それで評価されたら、僕はきっと優秀だったと思います。
でも残念ながら、学校では、学校が教えることや、受験に関することや、部活だけが評価基準でした。
だから、それ以外の事は無価値になりました。
でもほんとうは、無価値じゃなかったんです。
僕は、大学の工学部ではよい成績になりました。
工作や工夫こそが、植松電機の力になっています。
そして、僕の知ってる範囲では、人生においては、学校の評価する能力よりも、学校に評価されなかった能力の方が、仕事や収入にプラスになっているひとが多いです。
 
人には、かならず得手不得手があります。
だから、人には、かならず取り柄があります。
 
でもね、前にも書いたけど、日本では、自分の事を自分で肯定的に評価することは、「うぬぼれ」と言われます。
自分に対する自分の評価を禁じられたら、自分を保つためには、他者評価に依存するしかなくなります。
他人からどう思われるか?
他人からどう見られるか?
そして、他者評価のカテゴリーに縛られます。
それこそが、容姿に関する優越感や劣等感を生み出す元になり、そして、それは、比べる自信にすぎないので、
たとえ「キレイ」というカテゴリーに属していても、劣等感にさいなまれ続けるのだと思います。
 
誰も幸せにならない他者評価への依存。比べる自信。
でも、それを商売にしてる人にとっては、大事な金ヅルです。
だから、比べる自信や他者評価を売りつける人が少なくないです。
成績アップを食い扶持にする人は、成績アップの必要性を説くでしょう。
受験や学歴を食い扶持にする人は、受験や成績の価値を説くでしょう。
僕は、これは、通販番組の商品説明と、ほぼ同じだと思って見ています。(通販番組見ると、すっごく買いたくなります。とてもよく商品アピールできていると思います。でもそれが、人生に必須で不可欠か?と言われたら、そうとは限らないです。)
 
キレイじゃないけど、劣っていない。
自分には、小さいけれど、取り柄がある。
 
そんな、他者評価に依存しない小さな取り柄が見つかったら、少し気持ちは楽になれるかも。
(僕にとってそれは、小学生の時に出逢った、体育館をまっすぐに横断する紙飛行機でした。または、社会人になってから気がついた、ちょっと上手にスキーに乗れたことでした。そんな些細なことが、僕を支えてくれました。)
 
海月姫というアニメは、そんなことを考えるきっかけになりました。
いいアニメです。