植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

北見と網走の子達

昨日は北見と網走の中学校が見学に来てくれました。
あいにくの雨で、ロケット打ち上げはちょっと苦労しました。
でも、雨にも関わらず、笑顔でロケットを回収に行くこどもらの姿に救われました。

お話のときも、神妙な顔できいてくれました。
あんまり真剣で静かなので、ちょっと心配になりました。
でも、帰りがけに、何人もの子達が、
一緒に写真を撮ってくれたり、
「いままで、失敗を恐れすぎていた」とか、
「本を読めってよく言われるけど、なぜ読まないといけないのかが、やっとわかった」などと
ほっとしたような表情で話してくれたので
伝わっていたんだなあ、と嬉しくなりました。

子どもに、命令をするのは簡単です。
でも、子ども達は、「どうして?」と常に思うのです。
「なぜしなければならないのか?」を
明確に納得させなければ、やるきスイッチは入りません。

「勉強しなさい!」
どうして?
さあ、どう答えるべきでしょうか?

僕は学校の先生に
「ちゃんと勉強しないと、
いい学校に行けなくて、
いい会社に入れなくて、
大変だよ。」
と教えられました。

さらに疑問が生じます。
「いい学校ってなんだ?」
「いい会社ってなんだ?」

それに対する大人の説明は
「安定していて、楽をしてお金をもらえるのがいい会社だ。
そして、そういう会社に入れるような偏差値の高い学校がいい学校だ。」でした。

でも、こんな説明で納得できるわけがありません。
安定ってなんだ?
楽ってなんだ?
お金ってなんだ?
お金がないとだめなのか?
お金があるといいのか?
そもそも勉強すると能力が増えるはずなのに、
その能力をなるべく使わずに楽をするために勉強するのか?

勉強って何のためにするの?
いいからだまって子どもは大人の言うとおりにしておけばいいんだ!
なんてのは最低です。
思考力を奪ってしまいます。

子どもは、意外と考えています。
大人より、遥かに考えています。
だから、適当な説明でごまかすと、
それを簡単に見透かされます。

おそらく、教育にも、説明責任があります。
親と先生の見解がずれていても子どもは混乱します。
だから、だれもが納得できる見解が必要です。

僕は

学問とは、いい会社にはいって、楽して給料もらうためのものではありません。(誰かに評価されるためのものではありません。)
学問とは、社会の問題を解決するために人類が積み重ねてきたものです。

教育とは、失敗の避け方や、責任の避け方を教えるものではありません。
教育とは、死に至らない失敗を安全に経験させるためのものです。

と考えています。

え〜?なんで社会の問題を解決しなきゃいけないの?
と問われたら、
社会の問題ってなんだろう?
それを放置したらどうなるだろう?
ということを、一緒に考えてみたらいいです。
ちなみに、社会の問題には関わらなければいいんだよ、と教えると、社会の崩壊がはじまります。

僕ら自身、なんだかわけもかわらず、なんとなく学校にいって、
なんとなく勉強を教えられて、
なんとなく受験して、
なんとなく社会人になってしまったから、
学問の意味も、教育の意味もわかっていません。
でも、それが通用したのは、
人口増加に伴い、経済活動規模が勝手に増え続けた2004年までです。
この時代は、同じことを量を増やせば収入が増えました。
しかし現在は、人口減少に伴い、間違いなく経済活動は縮小しています。
この時代には、思考力が必要です。
だからこそ、僕らは、あらためて、
教育の意味や学問の意味を真剣に考えるべきです。
そしてそれを、子ども達に伝えるべきです。
説明できない自分をごまかすために、
子ども達の思考力を奪うような強制や押しつけはしてはなりません。
と、僕は思っています。