植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

あやまれ!という罰

以前、ロケットの実験で、あやうくけが人や死人がでかねないトラブルがありました。
安全に関する決まり事が、ほとんど未整備で、経験則にしたがってやっていたからです。

そのトラブルの後、記者会見が開かれました。
打ち上げ前は、とても好意的だった記者さん達は、
まるで顔つきが違います。
にらみつけるようにこっちを見ています。

僕は、まだ分析がすんでいないので、あまり具体的な事は言えなかったけど、とりあえず予測される原因をあげ、
その対策を説明し、次回の実験でその成果を確認したい、というようなことを言いました。

すると、記者さんから「反省の色がない!」と怒られました。

そのとき、違和感を感じました。
(正直言うと、ものすごく腹が立ちました。「反省の色って、何色やねん!」と思いました。)
そして、子どもの頃のことを思い出しました。
昔もこうだったなあ・・・

子どもの頃、なにかトラブルをおこし、先生に怒られるとき、
最初は「なんでこんなことしたの」的な質問をされますが、
説明すると「言い訳するんじゃない!」と言われ、
そのあとは、「あやまりなさい!」と言われました。
子ども心に、「説明」は「言い訳」じゃない気がするなあ、と思いましたが、とにかく最終的には「あやまりなさい!」です。
怒られなれてる子は、「言い訳なんかしないで、「ごめんなさい。もうしません。」と言えば、すぐに終わるのに。」と処世術を教えてくれました。

そう思っていろんな記者会見を見てると、
まあ、とにかく深々と頭を下げるシーンと、
そのときに激しくまたたくフラッシュ。
なるほど、これは、説明や釈明の場ではなく、あやまる場なのだなあ、と感じます。

もちろん、自分が人に迷惑をかけたりしたのだから、
あやまる、というのはとても大事なことです。
でも、あやまるって、何回あやまったら許されるの?
生涯あやまり続けないとだめなのかな?
ん?もしかして、あやまるって、罰なのかな?

昔の刑罰で、「引き回し」というのがありました。
死刑判決を受けた犯罪者が、町の中を引き回される罰です。
みせしめの意味があったのかも。
もしかしたら、「土下座」とか、「深々とおじぎ」とかは、
「引き回し」のような「罰」なのかもしれません。
しかし、普通は、罰は、一回です。
でも、「あやまれ」という罰は、許されるまで、永久に続いてしまう可能性があります。
だとしたら、「罰」としての「あやまれ」は、
あんまりいいものではないかもしれません。

きっと、あやまるのは、一回でいいのだと思います。
そして、再発防止に力を注ぐべきだと思います。

あやまらせて、「すっきり」するのではなく、
原因を究明して、再発を防止して、「すっきり」したほうがいいと思います。

その練習は、きっと、子どもの頃からできます。
だから、子どもがトラブルの説明したときに、「言い訳するな!」とか言わないで、しっかり話を聞いてあげて、
その上で「じゃあ、再発しないために、なにができるかな?」を子どもと一緒に考えたらいいのではないかな、と思います。
(実は、最近の小学校では、これはもう実施されています。だから、いまの小学生達は、きっとむやみに謝罪を求めたりしないで、問題を解決しようとするはずです。しかし、アラフォー以上の人たちは「あやまりなさい」方式の教育を受けてしまってます。この人たちが、先生に対して、学校に対して、容赦の無い「謝罪」ばかりを要求し、問題解決につながらないケースが、あちこちでこじれています。大人は、罰の与え方だけではなく、問題解決の仕方を学ぶ必要があると思います。でも、大人に学習させる方法がありません。こまったもんです。)