植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

正しい反省

小学生の頃、忘れ物をしたりすると、先生に怒られました。
そして、「反省しなさい!」と言われました。
 
その先生の怒り方は特別で、
最初にビンタをはられます。
転倒するほどの威力です。
その後は、教室のうしろの壁に立たされて、
残りのクラス全員の子達が、
「なんで忘れ物したんだ!」
「反省しろ!」と、
かなり長い時間、忘れ物をした子に詰め寄る。
という方法でした。
 
後に、この方法は、シベリアに抑留された人たちが
洗脳として経験した「つるしあげ」という方法だと知りました。
それが、小学校の授業の中で行われていたことに恐怖を感じます。
 
僕はいろんな失敗をしてきました。
そりゃそうです。
失敗は、意図的にするものではないです。
失敗は「してしまうもの」です。
なぜ、「してしまう」のかというと、
行為の結果の予測が不十分だからです。
なぜ、予測が不十分なのかというと、
それは、情報(経験)が足りないからです。
だから、若い人や、子どもは、多く失敗します。
そして、それは酌量され、リトライのチャンスが与えられます。
まだ、経験が足りないであろう、ということが、明確だからです。
 
で、さすがに、大人になると、失敗すると責任を負うのですが、
でもね、大人だって、情報(経験)が足りなければ、
なんぼでも失敗します。
責任を負わないといけないのに、失敗するのはつらいですね。
だとしたら、大人は、大急ぎで、経験を積み情報を増やす必要があるでしょう。
 
で、経験を積む際には、やったことがないことをやる必要があったり、知らないことを知る必要があります。
当然、やったことがないことをやると、うまくいかないです。
その場合、「うまくいかない=失敗」とか「うまくいかない=だめ」だと思い込んでいる人は、やったことが無いことと関わりたくないです。
そして「知らない=恥ずかしい」とか「知らない=だめ」だと思い込まされている人は、知らないことに関わりたくないです。
だから、経験を増やせません。
 
経験が増えないと、失敗します。
でも、失敗しない方法はあります。
それは、なにもしない、です。
できることだけしていればいいのです。
なるべく、同じ事をしていればいいです。
でも、それでは、成長しないどころか、
年々、人間は老いていきますから、性能は低下し、
できることが減っていきます。
それは、おそらく、ストレスになるでしょう。
 
そして、ストレスがたまりすぎた人の中には、
「だれでもいいから」「なんでもいいから」
他人を批判し、悪口を言わなければ、自分を守れない人が生じます。
そういう人は、まわりの人たちの挑戦を阻害し、失敗を糾弾します。
だから、まわりの人たちも、失敗できなくなります。
これは悪循環です。
 
僕は、以前、失敗したときに、悔やみました。
自分を責めて、後悔しました。
眠れぬ夜が何日も続きました。
頭の中は「こまったなあ」「どうしよう」ばかりでした。
でも、よくよく考えたら、「何もしていません」でした。
時間の無駄でした。寝た方がましです。
ということに、気がつきました。
 
僕は、「反省」とは「再発防止策」だと思っています。
それは、思考です。
「反省した態度」とか「反省した表情」とかではありません。
ましてや、「正座」とかではありません。
ところが、すくなからずの大人は、
「反省しろ!」と言うばかりです。
 
以前、ロケット打ち上げで危険な事がありました。
その後の記者会見で、僕は、原因を考え、
次の打ち上げにはどういう事をするかをしゃべりました。
すると、新聞記者から「反省の色がない!」と怒られました。
「反省の色って何色ですか?」と思いました。
その記者は、再発防止策よりも、反省しているっぽい態度を要求したのです。
言葉で再発防止策を説明しても理解できない人が、
色塗る程度で反省と見なしてくれるなら、なんぼでも塗ります。
 
こういう間違った「反省」を要求されてしまった人は、
正しい反省ができないかもしれません。
すると、挑戦できないです。自信が増えないです。
もしかしたら、誰かの挑戦を阻害し、誰かの失敗を糾弾する人になるかもしれません。
 
だからこそ、「正しい反省」はとても大事だと思います。
原因を考え、再発防止策を考える。
これは、特許における発明の思考とまったく同じです。
もしかしたら、正しい反省とは、発明なのかも。
 
失敗してしまった人には、
「反省しろ!」という言葉ではなく、
「どうやったら、再発しないか考えよう」のほうが
はるかに大事な気がします。