植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

教育を必要としているのはだれか?

昨日、北海道の高校でお話しをさせていただきました。
 
最後に、質疑応答がありました。
そこで、女の子から、「学校の勉強に意味があると思いますか?」と
質問されました。
 
僕は、あまり適切な答えが出来ませんでした。
先生を意識しすぎたかもしれません。
僕の答えは「現在の受験対策の勉強は、残念だけど意味があると思えない。僕は受験対策の勉強の結果、勉強が嫌いになった。でも、大学に行ったら、学問がとてもおもしろいことに気がつくことが出来た。さから、もしかしたら、いま勉強の意味を感じられないなら、進学したら、学問のすばらしさに気がつくことが出来るかも。」です。
でも、今にして思うと、これでは足りないような気がします。
 
僕は、お話しの中でも伝えようとしていますが、
「学問とは、いい学校や、いい会社に入るためのものじゃありません。
学問とは、社会の問題を解決するために、人類が積み重ねた記録です。」
です。
 
これを改めて伝えるのを忘れていました。大失敗です。
 
昔、北海道の小学校中学校では、スキー学習がありました。
僕は、スキーに乗れたから、スキー学習は楽しかったです。
でも、スキーが上手では無かった人の中には、スキー学習のおかげで、スキーが大嫌いになった人がたくさんいます。
 
同じことは、学校の授業にも言えると思います。
すでに勉強がわかってるひと。基礎知識がある人。その授業と相性のいい人にとっては、学校の授業は楽しいと思います。
でもおそらく、そういう人は、成績はいいとおもうけど、伸び幅は少ないです。
でも、勉強がわからないひと、基礎的な知識が足りない人は、
学校の授業のおかげで、勉強が嫌いになり、苦手意識を受け付けられ、自己肯定感を失っている人もたくさんいます。
 
僕の経験では、「先生にとって手がかからない子=いい子」
「先生の思うとおりにならない子=迷惑な子」
となってることが多いような気がします。
 
でもね、教育が、「できないことを、できるようにする。「できることを、もっとできるようにする。」が目指す意味があるとしたら、力を入れるべきは、「すでに出来る子」ではなく「できない子」のはずです。
すでに出来る子をあつめて、思うとおりに動かすのは、教育ではなく、支配だと思います。
 
昔、「落ちこぼれ」という言葉がありましたが、この言葉自体が、教育の問題を明確にしていると思います。
本当に重要なのは「おとさない、こぼさない」だと思います。
 
僕は、講演をします。
以前は、希望者が参加する方式の講演ばかりをしていました。
そこに集まる人達は、盛り上がるし、うなづいてくれるし、泣いてくれるし、笑ってくれるし、そりゃもう話す方も気持ちいいです。
でも、あるとき気がつきました。
日本中、どこに行っても、同じ顔があります。
僕の講演を追いかけてきてくれる人達です。
とてもうれしいです。でも、僕は違和感を覚えました。
 
ロケット教室も同じです。希望してくる子達は、前向きで、興味と好奇心があり、それを支える保護者がいます。
そういう子の反応は素晴らしく、僕らも気持ちいいです。
でも彼らは「どーせ無理」に負けない子達です。
 
でも、ほんとうは僕の話もロケット教室も、
「どーせ無理」に負けそうになってる人にこそ伝えたいと思っています。
 
 
教育を必要としているのは誰か?
先生にとって都合のよい子?
 
そうじゃないと思います。