植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

「嫌だ」という言葉にとらわれずに思考し続けよう。

嫌なことにであったとき、
「嫌」という言葉にとらわれたら、思考停止です。
「嫌」という状態は、過去であり、現在です。
そこにとらわれてしまうと、状態を良くする努力ができなくなります。

大事なのは、なぜ嫌だと思ったのだろう?を考えることです。

自分のしたことを、誰かに「嫌だ」と言われた時は、
その行為がダメなんだと思い込むのではなく、
相手がなぜ嫌だと思ったのかを考え、
できれば、確認してみることも大事です。
(もちろん、直接確認はしにくいこともあるので、
誰かに頼んで確認してもらうのもありです。)

これは、先に書いた
「あんたなんて」と言われたからといって、
「自分なんて」と思わなくていい。と同じです。

日本人は、電車で席を譲るのが苦手だと言われています。
その原因として、
席を譲ったら、譲った相手に拒否されて嫌な思いをした、という経験が作用していることが多いです。
でも、考えるべきです。
なぜ自分はそれを嫌だと思ったのか?
拒否されたことが嫌?
多くの人の前で自分の行為を否定されたのが嫌?
恥をかかされた?
相手が憎い?

そして、なぜ相手は自分の行為を拒否したのか?も考えたらいいです。
自分が年寄り扱いされたと思ったから?
自分が弱いと思われたから?
次の駅で降りるから?
恥ずかしかったから?
されたことが無いことをされて慌てたから?
遠慮を上手に表現できなかったから?

そしてまた、自分が席を譲られたとしたらどうするかな?も考えたらいいです。

「嫌だ」というざわついた感情にとらわれると、
思考できなくなります。
でも、あれこれいっぱい考えると、思考力が向上します。

ちなみに、外国人がスマートに席を譲れるのは、
おそらく、笑顔です。
そこには、相手を心配して譲る、というよりは、
なんだか楽しげな雰囲気があります。

よかれと思ってしたことを否定されるのはつらいです。
でも、相手も人それぞれです。立場も違います。経験も違います。
だから、ある人にとってそれは、よいことではないこともあります。
その場合、その人には行為を否定されるかもしれません。
でも、だからといって、自分がよかれと思ったことをやめてしまう必要はありません。

僕もあちこちで講演をします。
すると、大人の感想文の中には
「そんなことする余裕があっていいね。余裕が無い人間のことを考えろ。」とか、
「幸せな家庭環境だったからできたことであって、不幸な家庭環境の人のことなんてわからないくせに偉そうに理想論をしゃべるな。」
というものもあります。
そういう人達の気持ちもわからないでもありません。
そういう人達は、自分の心の傷にとらわれすぎています。
いうなれば「嫌」という言葉にとらわれた状態です。
自分は不幸だ。自分はお金がない。という過去や現状にとらわれ、
その状態を改善する努力ができなくなっている状態です。
それは、暑い日に、「暑い」と言ってるのとおなじです。
でも、いくら愚痴っても、ぼやいても、涼しくなりません。

人は人から必要とされたいです。
だから、人から拒否されるのは、とても嫌です。
でも、「嫌」にとらわれず、「嫌」をぼやかず、
どうすればよくなるかを考えた方がいいと思います。

と同時に、自分は人を拒否していないか?
誰かがよかれと思ってやったことを、詳しく説明もせずに否定していないか?
も注意した方がいいです。
自分も誰かを追い込んでいるかもしれません。

僕は、いつも講演資料をい手直ししています。
感想文をもらい、全部読み、自分の伝え方が至らない部分をなおそうと思っています。
でも、自分の身におきたしんどいことをずらずらしゃべっても、
同じような経験をした人を苦しくさせてしまうかもしれません。
だから、なるべくさらりと話すと、今度は、順風満帆の苦労知らずと思われてしまうこともあるようで、そのさじ加減は難しいです。
ただ、僕がどう思われようが、そんなのはどうでもいいです。
伝えたいのはただ一つです。
人の可能性が奪われない社会を作りたいです。
そのために、この世から、「どーせ無理」という言葉を無くしたいです。その代わりに「だったらこうしてみたら?」が広まったらいいと思っています。
(このFBもその思いで書いていますが、単語にとらわれて文章を読んでくれない人も少なくないです。だから、やめた方が楽になるなあ、と思うこともありますが、やめないでがんばろうと思います。)

「嫌だ」という言葉にとらわれずに、
「だったらこうしてみたら?」と考える人が増えたらいいなあ。