植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

共通敵でグループの一致団結感を増やそうとしないように。

僕が中学生だった頃は、中学校での暴力事件がとても多かった時代らしいです。
(当事者はよくわかっていないです。)
 
たしかに、いろんな人がいました。
 
そのとき、ある先生は、そういう「危険なグループ」との上手な関わり方として、クラスの中に、「共通の敵」を作りました。
クラスの中に、反撃できない弱い敵を作り、
それを攻撃することで、自分への攻撃を回避する雰囲気を作っていたように思います。
 
確かに、その「共通敵」ができてから、クラスのまとまりは、
少し良くなった感じはしました。
なにせ、なんだかよくわかんないけどむしゃくしゃしたときなどに、その「共通敵」の悪口を言ったり、攻撃したりすれば、
なんとなくみんながまとまることができた感じでした。
 
この、グループをまとめるための、犠牲の生け贄は、
かなり以前から、その有効性が確かめられていたようです。
国家でさえも、国内の不満の矛先をかわすために、「共通敵」を利用してしまうほどですから。
企業の中ででも、それを使ってしまう人たちはいます。
 
でも、「共通敵」にされた方は、たまったもんじゃないです。
 
たいてい、自分のことをうまく表現できない人や、
しゃべるのが下手で、反論できない人や、
すぐに泣いてしまって、しゃべれなくなる人も狙われます。
要するに、反撃してこない相手を選ぶのです。
 
「あいつ、いやだよねー?」「ねー。」という、
共通の行動が、攻撃側の絆になり、一致団結感が出せます。
 
僕は、自分がそのときに、どういう立ち位置にいたのかを、
あまりおぼえていない気がします。
僕は中学校がとても嫌いでした。
でも、最初はみんなと一緒になって、攻撃していたような気もします。
なぜなら、攻撃をやめよう、と思ったことを克明におぼえているからです。
みんなで攻撃していた相手の体操服に、きれいなやさしい字で、その子の名前が書いてありました。
お母さんが書いてくれた字だと思います。
お母さんが、どんな思いで、この字を書いたのかなと思いました。
その体操服を、みんながつかんで引っ張ったり、投げたりしています。
確かに、その子は、ちょっと変わっていて、迷惑なこともありました。
でも、この子を愛するお母さんがいるんだと思ったとき、僕は、ものすごく苦しくなって、攻撃できなくなりました。
 
それ以来だと思います。
みんなが嫌だという相手を、僕自身が嫌な経験もしていないのに、共感と協調を示すために「嫌だ」と思わないようになりました。
他人の噂話を、鵜呑みで信じないようになりました。
必ず、自分で確かめるようになったと思います。
そうしたら、思ったほど、嫌な人はいなかったです。
(というか、共通敵を作ろうとして、あることないことを噂で話し、人を陥れるような悪口を言う人の方が、よほど嫌な人に思えるようになりました。)
 
僕は、ネット社会における、悪口や風評の拡散は、
共通敵を作ることでまとまろうとしている人たちの行為に思えてなりません。
 
よく知りもしないで「嫌だ」と思い込んだり、
噂を鵜呑みにして嫌いになったりするのは、
他人に思考を支配される残念な状態だと思います。
他人に思考を支配される状態は、自由の正反対です。
安心感を得るためになら、自由を失うのもオッケーなのかな?
 
僕は、誰かが誰かの悪口を言っていたら、
まずは、その悪口を言ってる人の言うことを信じないです。
そして、悪口を言う人と、仲良くなろうと思わないです。
(こちらが、その話に乗らなければ、相手もそういう話をしなくなるものです。)
(ただし、僕自身も本当に嫌な思いをした相手がネタの場合は、ついつい話に乗ってしまうこともあるので、反省です。)
 
昔見た映画だったかな、ドラマだったかな・・・
悪魔の力は、それを鵜呑みに信じる人の心で強くなるそうです。
だから、悪魔の力や言葉を信じない人が増えたら、
悪魔の力は急速に失われていく、というような話がありました。
人間社会においても、同じ事が言えるかもしれません。
 
悪口や、誹謗や中傷を、鵜呑みに信じない人が増えたら、
「共通敵」にされてしまう人も減るだろうし、
風評被害も減るのではないかと思います。
 
そして、くれぐれも、「共通敵」でグループをまとめようと思わないようにしたほうがいいと、僕は思います。
 
(残念なことに、トップダウンで「共通敵」にされてしまった人は、そのグループを出るか、そのグループの外に、仲間を探す努力をするといいかもしれません。想像以上に世界は広いです。)