植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

正解のない問題を考えるときは「尊重」が大切。(尊重は肯定ではないよ。)

みんなでカラオケに行ったとします。
それぞれが、自分の好きな歌を、自分なりに歌います。
そのときに、だれかが歌い終わるたびに、
それについて、
歌い方ばかりではなく、歌の歌詞の内容や表現について
批判する人がいたら、どうなるでしょう。

見知らぬ人が集まるスナックで、みんながカラオケを歌っています。
そのときにも、同じことをする人がいたら、
下手したら喧嘩になるかもしれません。

どの歌を歌うのか。
その歌の、どこが好きなのか。
どんな思い出があるのか。どんな思い入れがあるのか。
どんな思いを込めるのか。
誰に伝えるのか。
そりゃ、さまざまです。自由です。
それについて、批判したり否定したりすることの無意味さと、非生産性は、おそらく多くの人が理解しているはずです。
(そうじゃないと、カラオケという文化は成立しないでしょう。)

料理、音楽、小説、映画、とにかく、何かを発表すると、それを見たり聞いたり経験したりしたいろんな人に評論されたり、とやかく言われたりするものです。
しかし、例えば、自分がいやだと思った音楽を、大好きだという人もいます。
自分が「ぬるくて食えねえ」と思ったラーメンを、「猫舌だから助かる」と喜ぶ人もいるでしょう。
その場合、この二人は、戦って、どっちの意見が正しいか勝敗を決するべきでしょうか?
そんなの無意味ですね。

以前、すべての人の考えは尊重されるべき、と書いたら、
たちまちに、「そんなの認めたら、殺人者の考えも尊重しろってことになってしまう」という反対意見が来ました。
では、「すべての人の考えを尊重しない」とは、どういう状態でしょう。
ちなみに、尊重の反対語は、「無視」や「軽視」だそうです。
おそらく、この人は、尊重の意味がわからなかったのかもしれません。尊重は、尊敬でも、肯定でもありません。
きっと、尊重を「尊敬」や「肯定」と思ってしまった人は、
その反対として「軽蔑」や「否定」となり、
それを行動に示さなければいけないのかも。

マイケル・サンデルさんの白熱教室では、ある問題について、肯定派と、否定派の人が、自分の考えを喋ります。
それを両方とも認めることで、新しい考え方を導こうとしています。
僕は最初にその番組を見たとき、「小中学校の授業がこうだったらよかったのになあ」と思いました。
なぜなら、学校では、下手に意見をいうと、先生に「それは間違ってる」「その考えはおかしい」と却下されることが多かったからです。(おそらく、学校の限られた授業時間のなかで、想定された答えを導くためには、邪魔になる意見は排除しないといけなかったのでしょう。でも、昔は今よりも時間に余裕があったそうですから、いまの学校での授業では、もっと厳しいことになってるかも。)

僕の会社で子どもたちにロケットを作ってもらいますが、
高圧的で支配的な先生が目立つ学校ほど、全くデザインできない子たちが多いです。
よくよく理由を聞いたら「何か書いたら、何か言われるから」だそうです。
自己表現することを恐れ、なるべく目立たないように、自分の創造性や、自分の思考を止めてしまう子がいるのは、他人の思考や表現を批判する「評論家」のおかげのようです。
そして、そういう評論家は、高圧的で支配的な環境で、自信を奪われている人たちに多く存在するようです。
自分の自信を奪われた人が、他人の自信を奪うのかもしれません。(ちなみに、そういう人は、もちろんデザインしません。したとしても、あきらかに当たり障りのないことしか書きません。)

世の中には、正解がないことが多いです。
だから、「正しい」か「間違ってるか」でジャッジすることは不可能なことも多いです。
でも、学校のテストなどで、正解がある問題、しかやってこなかった人たちは、「正しい」か「間違ってるか」を気にしてしまうのかもしれません。

すべての人の考えや表現や嗜好は「尊重」されるべきです。
それは、「肯定」ではありません。
だから、「否定」する必要はありません。

道徳が教科になるようですが、そこでは、せっかくだから、
正解のない問題を考えるときに、大事なのは「尊重」ですよ、ということを、子どもたちに伝えてほしいなあ、と思います。

そうすれば、世の中は、もっとクリエイティブになれるかもしれません。

言っとくけど、これは、僕の思考ですよ。