植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

努力は定量的なものではないよ。

最近、僕が悩んでしまうのは、
「自分は努力できません!でも、成果がほしいです!」という要望です。
 
うーん。どうしよう。
 
僕が理解に苦しむのは、
「自分は努力できません」という宣言です。
なぜ?と思います。
 
もしかしたら、こういう人達は、「努力」を定量的に考えているのかな?
 
本来は、努力には、量も単位もありません。
だから、だれでも努力できます。
というか、おそらく、朝起きて、布団から出てきた段階で、けっこう努力してる気がします。
欲望のままに、寝続ける、ということもできたのにね。
 
そんなの、できて当たり前でしょ?だからそんなの努力ではない!と思う人もいるかもしれません。
そういう人が、「自分は努力できません!」になるのかも。
だってね、「できて当たり前でしょ?」の基準もないのに、
その基準を自分で作っている、ということです。
その基準以下では、努力ではない。と思った段階で、
おそらく、かなりの努力が努力と認定されなくなります。
 
たとえば、ロケットを作りたいです!と思ったとします。
そのために、まずは、学研の図鑑を読みました!は、立派な努力です。
ライトスタッフという映画を見ました!も、立派な努力です。
モデルロケットを作りました!なんてのは、かなりの努力です。
 
でもね、
何をしていいのかわかりません、どうすればいいですか、教えてください。という人が多いです。
そういう人に、
「学研の図鑑でも読んでおいた方がいいよ。」と言っても、
読まない人が多いです。
ライトスタッフという映画は、見たらきっといいよ。」と言っても、見ない人も多いです。
「モデルロケットは、Amazonで買えるから、作ってみたら?」と言っても、買いもしないし、作りもしない人は多いです。
なんでかな。
 
どうせ読んでもわからないだろう・・・
そんな映画を見る時間がない・・・
モデルロケットなんて、難しそう・・・・
 
「教えてください」って、どのレベルのこと?
できるようになるまで、わかるようになるまで、マンツーマンで手取り足取りやらないとできないの?
 
なんとなく、これは、モデルロケット教室をしていると感じます。
小学生は、自分で考えて、工夫して、隣の人を見て、作ります。
でも、中学生くらいになると、「わかりません」で固まってしまう人が多いです。隣の子が同じことやってるのに、見もしないし、聞きもしません。
僕はその原因に心当たりがあります。
 
小学生の頃には、学校の勉強や、学校の体育以外のことでも、友だちから認められたり、褒められたりする分野を持ちやすいです。だからこそ、学校の勉強以外でも、自分の知りたいや、やってみたい、には価値があります。
でも、中学校にあがったあたりから、学校に評価される事以外は無価値どころか、マイナスになります。
そうなると、「自分がどうしたいのか?」ではなく、「他人からどう思われるのか?」が行動の原動力になってしまいます。
 
僕は、現在の受験システムは、思考力と主体性を奪う要素がとても多いと思っています。
それは、「言われたことを、余計なことを考えないで、言われたとおりにやればいいんだ」という、ロボットがいない時代には重要な教育だったのかも知れませんが、これからではそれではロボットに負けてしまいます。
でも、もうすでに、ロボットに負けてしまう人が、どんどん量産され続けています。
 
だからこそ、お願いだから、
「できなかったことができるようになる」を褒めてあげてほしいです。
どうか「そんなのできて当たり前でしょ!」と言わないでほしいです。
または「そんなことおぼえてどうすんの!そんなことしてるヒマがあったら、勉強しなさい!」と、言わないでほしいのです。
 
子どもが主体的に行った努力や挑戦を、褒めて支えてあげてほしいです。
そうしないと、「努力できません」宣言をしてしまう人が増えてしまう気がするのです。
ロボットに負けてしまう人が増えてしまいます。
 
努力にはランクはありません。
やりたいことを実現するために近づいてく行為は、すべて努力です。
だから、努力できません、なんて思う必要は無いです。
ぜひ、自分で考えて、踏み出してみてほしいです。