植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

喜びや自信を得るためには。

自分を褒めてあげたい。という言葉があった気がしますが、
僕はそれはとても大事だと思っています。
 
他者からの賞賛や、他者からの評価によって得られる自信は、
本当に自信ではないと思います。
それをやってしまうと、他人からどう思われるか、だけで行動するようになってしまいます。
そこには「自分」はなくなってしまいます。
 
たとえば僕は、自分で紙飛行機を作ります。
それを1人で飛ばします。
うまく飛ばないのを、なおして、なおして、
それでもダメなら、設計を変えて・・・
で、すんごく飛んだとき、うれしいです。
そういうときは、「俺!すげえ!」と思うようにしています。
苦労するから、うまくいかないから、だから得られる喜びです。そしてそれは、本当の自信になると思います。
 
2005年の3月12日。生まれて始めて、僕らが関わったロケットが飛んだとき、涙が止まりませんでした。
苦労したからこそ、失敗したからこその喜びです。
そして、その喜びを知ってしまったからこそ、
苦労や困難に向かっていけるのだと思います。
ある意味、かなりM的な状態です。
 
だから、僕らは、大学生がロケットを作りたい、飛ばしたい、というのはうれしかったし、できる限り応援をしようとおもっていました。
でも最近、なんとなく昔と違う感じが・・・・
ありもんのエンジンで、とりあえずロケット飛ばしたいです。
実験の時間はとれません。なるべく簡単に飛ばせるのがいいです・・・という要望が増えています。
 
え〜。それって、うれしいのかな・・・・
 
あの日見た花の名前を・・・というアニメの中で、
今は無き友人の夢を叶えたい、という仲間達が、
流星というロケットを飛ばしたいと思います。
だから彼らは、職人さんに頼み込んで、作り方を習います。
そのためにかかる費用は、土木工事のバイトで稼ぎます。
厳しく指導されて、自分たちの手で作って、
それがとんだときには、そりゃもううれしいでしょう。
 
僕の会社に修学旅行に来てくれた子達には、
1人一機のロケットを作ってもらいます。
作ってるときは、みんなあまり深く考えていないと思います。
でも、試しに一発飛ばしてみせると、みんながどよめきます。
そして「あんなに飛ぶと思わなかった・・・」という声があがります。
自分のは失敗するかも・・・うまくいかないかも・・・と
ボタンを押す指が震えます。緊張します。
そして、ロケットが飛びます。
そうしたらうれしいです。
でも、この喜びは、すでにできあがったロケットを飛ばしたときには、得られない喜びだと思います。
 
花火大会を見るのは奇麗でうれしいです。
でも、打ち上げている人達の緊張と喜びは、それとは異次元でしょう。
 
おそらく、喜びは、得るための苦労と正比例です。
苦労なくしては、得られる喜びもたかが知れてるということです。
だからきっと、苦労は、買ってでもした方がいいのだと思います。
 
時間がない。お金が無い。能力が無い。だから、これしかできない。現在の自分の状態を説明して、自分の能力の範囲内でなにかやっても、得られる喜びは、過去の喜びを超えることはないでしょう。
でも、
時間がないから時間を作る。
お金が無いから、工夫する。自分で稼ぐ。
能力が無いから、学ぶ。試す。
で得られる喜びは、いままでにないものになるでしょう。
そしてきっと、自分をもっと信じられるようになると思います。
 
だから、自分のできる範囲ではなく、
もうちょっと躊躇の向こうに足を踏み込んでみてほしいです。
そうしたら、人生で最高の喜びにであえると思います。
(過去の喜びを超えますから、人生最高の喜びになります。ちなみに、その最高値はなんぼでも更新できます。)
 
 
 
 
 

問題解決できない人が増えている。

最近、すごく感じるのは、
問題解決できない人が増えていることです。
 
自分の身に降りかかった問題を、
自分の力で解決できない人です。
 
なぜ解決できないのか?
 
その原因は、問題の分析ができていないことです。
 
なにが問題なのか?をしっかり考えるのが大事です。
何をしたいのか?
何が妨げなのか?
なぜ妨げなのか?
その妨げを突破するにはどうしたらいいのか?
突破できないなら、ちがう道はないのか?
 
僕は以前、いろんなメーカーと共同研究をしました。
そのとき、無理難題をふっかけられることが多かったです。
そういうときは、僕は、無理なモンは無理だ、と答えていました。だって、無理なモンは無理だもん。
でも、必ず、だったらこうしてみたら?と考えました。
「本当にこの形じゃないとだめなの?」
「本当に求めているのはこれでいいの?」
「本当にこの方法以外にないの?」
 
目指すべきはゴールです。
そのための「道」が間違ってることはよくあります。
間違った道を指示されることもあります。
でも、大事なのは、「指示された道をいくこと」ではなく、
ゴールすることです。
 
山のてっぺんに至る道は無限にあるのです。
どのルートでもかまわないです。
裏側には自動車で行ける道がついてるかもしれません。
 
この「ゴール」が理解できていないと、
人は問題を解決できません。
同じように、このゴールの共有化ができないと、
チームは力を合わせられません。
 
ゴールの遥か手前で、どの道を行くかで悩んでいたり、
この道を行くためには、この靴が必要だけど、その靴が高価だから、どうやってそのお金を稼ごうか、とか悩みはじめたら、どんどんゴールから遠ざかります。
 
もしも、ぐるぐるした解決しない問題で苦しんでいるのなら、
まずは、遥か遠くのゴールを見つめるといいです。
自分ならどうしたいのか?を考えるのが有効です。

ある条件を満たせない自分はダメである。と思う必要は無い。

僕は、夢がとても大事だと思っています。
夢があると、いろんなことができるようになると思っています。
 
でも、そうすると、
「自分には夢がないから、自分なんてもうだめです。」と言う人がいます。
 
僕は、「夢を持っていないとダメ人間ですよ。」とは言っていないです。
夢があったらいいことがあるよ、と伝えているつもりです。
さらには、夢はどんなのでもいい。何個あってもいい。と伝えているつもりです。
でも、「ある条件を満たしていない自分はダメである」という認識をする人は少なくないようです。
 
「自分なんて・・・」「どうせだめだ・・・」
これを、生まれつき言う人は、いません。
なぜなら、この言葉を知った状態で生まれてくる人はいないからです。
 
ですから、「自分なんて・・・」「どうせダメだ・・・」は、
後天的な教育(学校も家庭も含む)によって教えられるものです。
 
では、なぜ「自分なんて・・・」「どうせダメだ・・・」になるのかというと、それはおそらく
「お前なんて・・・」と「どうせダメだ・・・」が影響している気がします。
それはすなわち、「比較」です。
 
成績が悪い。点数が低い。足が遅い。体重が重い・・・
比べると、優劣ができます。
標準から上だと、優れている。
標準以下だと、劣っている。
僕らは、そう教えられてしまいます。
(優良可不可なんていう、字面がまさに!ってのもありますね。甲乙丙丁というのもありました。)
 
おまけに、この比較を「自信」だと思い込ませる教育をしてしまう大人がいます。
比べる自信を追い求めている人がそれをやってしまいます。
でも、比べて手に入るのは、自信ではなく、優越感です。
優越感を得るためには、自分以下が必要です。
それは、さもしいことだと、僕は思います。
 
比べてつけられる優と劣。
それは、本当に「優れる」と「劣る」なのかな?
 
F−1は、すごく速いです。サーキットを走らせたら、すごい性能です。それは、サーキットでの自動車のレースという評価基準では「優」だと思います。
でも、軽自動車よりも人間を乗せられません。荷物も積めません。それらが評価基準になった場合、F−1は「劣」です。
 
油圧ショベルには、いろんな大きさがあります。
では、重量30トンの大型ショベルが優れていて、
重量3トンのミニ油圧ショベルは劣っているでしょうか?
優劣などないです。
それぞれが、要求に合わせて最適な設計をされているだけです。
 
僕は、人間も同じだと思います。
人間は成長します。赤ちゃんからお年寄りまで、様々な成長段階があります。もちろん、性別もあるし、人種の違いもあります。
そのなかで、「この能力が無ければダメ人間」なんていう基準など存在しないし、してはなりません。
すべての人間が、それぞれに適した役割を務めることができる社会が重要です。
 
だから、「自分なんて・・・」と思う必要はないのです。
それぞれが、それぞれを活かせる環境を探すべきです。
 
もしも、自分なんて・・・どうせダメだ・・・と思ってしまったなら、「そんなことない。この世にだめな人はいないんだ」と思ってほしいです。
 
そして、大人におしつけられた、「比べる自信」は、早めに捨てた方がいいです。
本当の自信は、比べなくても成り立ちます。

人生の使い方

僕は、会社を経営しています。
で、僕は経営者だから、投資をします。

僕は、投資に対して、得られる成果が過小である場合、
それを失敗だと認識しています。

ちなみに、僕は、得られる成果として、現金以外に、
知恵と経験と人脈をカウントしています。

人間は、必ず死にます。致死率100%。
人間の寿命には限りがあります。
僕らは、その限りがある時間を毎日消費しながら生きています。

ということは、僕らは毎日、
限りがある時間を投資しながら生きているということです。

だから僕は、やったことがないことに挑戦します。
なぜなら、できることだけやって、失敗しない、では、僕の知恵も、経験も、人脈も増えないからです。

投資に対して、得られる成果が過小な場合は、失敗です。
ということは、失敗をしないためにできる範囲のことしかやらない、というのは、大失敗だと思うのです。

そう思っていたから、僕は、できることが増えていったのだと思います。

限りある人生。
失敗しないように、できることしかやらないでいると、
能力が増えないままに年齢を重ねてしまうだけです。

限りある人生は、知恵と経験と人脈になるように使うと、
人生の価値は、どんどん増え続けると思います。

僕は喜びを知っている。

僕は、
できなかったことが、できるようになる喜び。
知らなかったことを、知る喜び。
わからなかったことが、わかる喜び。
を知っています。

もちろん、

できない悔しさ。知らない悔しさ。わからない悔しさも知ってます。
でもそれは、悔しさであって、恥ずかしさではないです。

悔しいから、できるようになりたいです。知りたいです。わかりたいです。


でも、子どもの頃には(いまもか・・・)
失敗すると、それみたことかと笑う人がいます。
できもしないことやるからだと、バカにする人がいます。
なんでこんなこともできないんだと、あきれる人がいます。

「あこがれ」は「高望み」と言われ、
「自信」は「うぬぼれ」と言われます。
身のほどを知れ、と言われます。

これでは、できないことに挑んだりするのは、怖くなってしまうでしょう。

でも僕を支えてくれたのは、伝記の人たちです。
みんな失敗してる。でも、その失敗をデーターにして、前進してる。
僕もそうしたいと思いました。
だから僕は、前進できたのだと思います。

身のほどを知れ? 
現在167センチだわ!

僕は、今日も成長できます。
なぜなら、
できなかったことが、できるようになる喜び。
知らなかったことを、知る喜び。
わからなかったことが、わかる喜び。
を知っているからです。
小さいときには、全員が持っているこの素晴らしい喜びを、
奪われなかったからだと思います。

人生の選択肢を広げるのは「学歴」ではなく「挑戦」だと思う。

自分の能力に安全率をかけて未来を選ぶと、自分の未来は縮小します。
 
たとえば、100の能力があったとします。
それをフルに使わないといけないことは、失敗するかも知れないから、確実に成功が見込める80の力でできることをやったとします。
そうしたら、自分の現在の能力の80%のことしかできないということです。
 
それを繰り返したら、どんどん未来が縮小します。
人生の選択肢が減っていきます。
 
時々、進学すると人生の選択肢が広がる、という人がいます。
それは、自分の能力以上に挑戦をした場合は、そうでしょう。
でも、間違いなく合格できる範囲だけで、未来を選ぶと、
おそらく、人生の選択肢は縮小しかしないです。
 
もちろん、100の能力に対して、200に挑むのは大変です。
いきなり挑んだらうまくいかないでしょう。
でも、うまくいかないからこそ、何が良くなかったのかがわかります。そうしたら、改善できます。きっと能力が、105くらいになると思います。それが成長です。
 
でも、中学受験や、高校受験で、浪人って見たことないです。
ってことは、ほとんどの人が、「失敗が許されない挑戦」を強いられているということかもしれません。
そこから、縮小未来がスタートしてる人は少なくないようです。
 
日本の人口が減っています。
この状態で日本の経済力を増やすためには、個々人の能力増強以外に手がありません。
だからこそ、これからの日本では、「失敗が成長になる挑戦」が、教育で必須になると思います。
(いや、いつの時代もそうなんだけどね。)
 
僕は、学生の頃から、「なぜ教育に格差があるのかな?」と思っていました。
だって、本当なら、教員免許制度がある段階で、すべての学校では同じ教育が提供されるべきです。どの学校に行っても、同じ未来が得られるはずです。でも、そうなっていませんでした。
でも、実際の所、全部の学校で同じ教育を提供したら、みんな同じになるかったら、そんなことないですね。
実際に重要なのは、教育を提供する側の格差ではなく、学習する側の能力の格差と特性をいかに活かすか、だと思います。
そこには、まず第一に、早生まれ、遅生まれ、という1年の差が明確にあります。それ以外にも、個々人の差があります。
 
だったら、一番いいのは、「年齢で学習内容を決める」ではないことだと思います。
さらに言えば、届かなかったらリトライができることだと思います。
でも今の日本の義務教育システムは、それの正反対に見えます。
全員が同時に同じゴールを切るために、ゴール自体の設定が低くなっているケースも多くあると思います。
 
これだけ、情報通信が発達しました。
だったら、大勢を集めて一度に教える、という方法以外の方法が生まれてもいい気がします。
 
もう、それを研究している人も沢山います。
でも、「義務教育」という制度が、それにマイナスに作用していることが多いです。
もうそろそろ、国が提供する義務教育以外の教育でも、社会が求めている資質さえ満たせばOKという基準が必要な気がします。
 
そうそう「社会が求めている資質」です。
それを制定できるのは、社会人です。
「こんな人と一緒に仕事がしたいな」
「こんな人なら信頼できる」
「こんな人なら頼りになる」
という、共に働く仲間に求める資質を、みんなで考えて見たら、
もしかしたら、偏差値や学歴に支配されない、個々人の特性が活かせる教育ができるようになるかもしれない、と僕は思っています。
 
ま、一番大事なのは、保護者が、我が子の価値を、
他者評価で決めないってことかも。
我が子の価値は、自分で考えるべきです。
「この子と一緒に働きたいな!」と思える人にするためには、
どうすればいいのかな?を考えたらいいと思います。
 

データーの大きさと、転送速度の大きさは、バランスが大事。

昨日、実験の都合で、急遽SDカードが必要になり、近所の家電量販店へ。
 
SDカード買うのは久しぶり。
で、眺めていたら、SDHCって書いてある。
なんだそれ?共通性あるのか?
と心配になったけど、見た奴のほぼすべてがSDHCなので、
もうこれしかなかろう、ということで、
大容量のがいいといわれたから、迷わず128GB購入。
でも、ちょっとびびって、64GBも購入。
(機械によっては、あまり大容量だと認識しないことが・・・)
 
で、実験場で試して見たら、128GBも無事認識。
すさまじい大容量。
ビデオ映像が11時間とか撮れちゃう。
科学はすごいねえ、なんて話していたら、
飛行データ解析などが得意な人が「でも、そんなデーター解析したくない。」と。
たしかに。莫大な量のデーターだもんね。
 
パソコンの容量と、
パソコンの演算能力と、
パソコンのバススピードと、
データ転送の回線の速度と、
メモリへの書き込み速度と・・・
いろんなもんがバランスしないと、
素晴らしい技術も実力を発揮できないです。
 
昔、スーパーコンピューターの開発に関わった時は、
莫大な計算結果を転送する回線速度が、9.6kbps。
一週間送っても届かないことが判明。
ということで、MTリールを何本も背負って、新幹線で・・・
ということもありました。
 
おそらくこれは、様々な分野に言えることかも。
 
いま、北海道は、JRも高速道路も、冬になると容易に止まります。物流が止まります。
北海道は、広い土地を活かして農業製品を沢山作れます。
それを北海道から出荷することで、外貨を獲得できます。
経済において、外貨の獲得はものすごく重要です。
でも、そもそも出荷できなければ外貨獲得ができません。
北海道は、県としてとても大きいので、県内の輸送がとても重要です。そして、北海道だけで消費できないほどの食料品を生産できるという特殊な特性があります。
だとしたら、北海道の経済と、道内道外の物流は、切り離して考える事はできないはず。
僕は、北海道のJRは、乗客数だけで路線の存続を判断すべきではない気がします。さらには、経済の動脈として、北海道がもっとサポートをすべきではないかなあ・・・と思ったりします。
 
でもまあ、昔は、北前船というものが活躍していました。
輸送のエネルギーコストを考えたら、船はすごく低コストです。
もちろん、船も、爆弾低気圧が来たら動けませんが、
今一度、ドメスティックな貨物輸送手段として見直してもいいのではないかと思います。
そうしたら、北海道の造船業が復活するかも・・・