植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

100%当てはまらないと、正しくない、ですかね?

僕は、CAPスペシャリストの資格を持っています。
CAPとは、なんどもこのfacebookに登場していますが、
子ども達を暴力から予防するための概念です。
(へんな日本語なのは、CAPの意味を正しく伝える日本語が存在しないからです。予防というか、防止というか、対策というか、備えというか、なんともうまく表現できません。)

CAPは、暴力の定義を明確にしています。
なぜなら、暴力の定義が明確ではないことに起因する問題が多いからです。
日本では、傷や後遺症がないと、暴力と認められないケースがほとんどです。
だから、いくらひどいことを言われても、傷が残らない程度の暴力を振るわれても、学校の対応は、「とりあえず様子を見る」なら良い方です。
下手すると、「その程度のことを気にするあなたが悪い」まで
言われてしまうことがあります。

だから、CAPでは、暴力とは、人間の安心、自信、自由を奪う行為。としています。
これは、加害者側の判断ではありません。被害者側が、
自分は、安心できていない、自信を持てていない、自由に選ぶことができていない、と思ったら、それは、暴力という状態に直面しているということを認識し、その状態を改善するためには、
どんなことができるか、考えてみよう。ということを、伝えるものです。

CAPは、主に小学校や中学校で、授業の時間を借りて、
子ども達にワークショップを提供します。
現在、僕の暮らす赤平市では、すべての小学校と中学校に
毎年、CAPのワークショップを提供できています。

ただ、問題もたくさんあります。
なにせ、学校は、ゆとりが終わってしまい、
ぎゅうぎゅうに詰め込んでいます。
その、厳しい授業時間を借りるのが、とても大変です。
(ほかにも、使用時間が60分というのも、学校の授業時間にマッチしていません。中学生向けは、2日間必要だし、保護者向けと、先生向けも、別々に必ず提供しなければいけないなど、実施には、
とてつもなく高い壁を、CAP自ら作り出してる感じです。普及させる気あるのかな。)

毎年、市内すべての学校に、CAPの提供についてお願いに行きます。
いろんなところで、CAPについて、先生にお話しすることもあります。

好意的な先生もいます。でも、批判的な先生もいます。
批判的な先生のほとんどが
「いじめとか、暴力とか言っても、他の学校はどうだか知りませんが、うちの学校には、いじめも暴力もありません。どこの学校も、困っていませんよ。だから、そんなもの必要ありません。」と言います。
こちらとしては、その学校でいじめがあるから、させてくれ、と言ってるわけではありません。
僕は、CAPの概念は、すべての人が知っていてもいいと思っています。

すべての学校がいじめや暴力で困っているわけではありません。
しかし、だからといって、いじめや暴力の対策をする必要がない、
ということにはならないと思います。
事実、毎日のように、新聞には、虐待やいじめによる自殺などの報道がなされているじゃないですか。
と言ったら、「全国にいくつの学校があると思いますか、何人の生徒がいると思いますか。ほんの数件の事例で、大騒ぎするのはおかしい。」まで言ってくれた先生もいました。
ほかにも「そんなことしても、うちの生徒にはなんにも残らないですよ。無駄ですよ。」と言った先生もいました。この先生は、自己存在を否定しています。だって、それを言ったら、教育そのものが無駄じゃないですか。この先生は、生徒の能力を、すごく過小評価していると思います。


ある事象について話すと、「それはすべてのケースに当てはまるのですか?そうじゃないですよね?だったら、それは正しくありません。」と言い切る人がいます。
こういう人は、学校のテストの犠牲者らしいです。
学校のテストは、必ず正解があります。
それしかしらない人達は、「混在」が理解できず、白黒はっきり線をひきたがるのだそうです。

昔みた、アニメで、世のためにがんばる主人公が、残念ながら、自分の側にいた大切な人を守れませんでした。
すると、敵は言うのです。
「たった一人も救えないくせに、世界を救うとか、よく言うわ!」
主人公は、ものすごく愕然としてしまっていました。
どんなお話だったか、全然覚えていません。
でも、このやり取りだけ、鮮明に覚えています。
(もちろん、台詞もオリジナルではないと思います。)

CAPを学校で提供しても、いじめや暴力が100%無くなるもので
ないと思います。
でも、学校は、様々な家庭環境の子達に、一度に関われる大事な場です。
そこで伝えたことが、いつか、暴力を防ぐきっかけになるかもしれません。

100%当てはまらなければ、正しくない。
100%効果が無ければ、やるだけ無駄。
という考え方は、自然現象や人間社会を考える上では、
ものすごい妨げになると思います。
そういう考えにとらわれないように、
心と頭脳を柔軟にして、
よさげなことは、とりあえずためしてみよう、が大事だと、
僕は思っています。