植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

人は嫌だけど、人は素晴らしい。

僕が子どもの頃、帽子を取られました。
僕が、返してもらおうとしても、
みんなが上手に帽子を投げてキャッチするので、
僕は、みんなの輪の中を、くるくるするだけです。
それをみんなが笑います。
大切な帽子だったので、乱暴に扱われるのがいやでした。
とても悲しかったし、取り返せない自分が悔しかったです。
で、結局、僕は人間を攻撃します。そしてけんかになります。
で、先生に怒られます。

彼らの言い分は「一緒に遊んでいただけす」「ちょっとふざけただけです」「植松君も楽しんでいたと思いました」です。
僕は、泣きじゃくっていて、ちゃんと答えられません。
先生が言います。
「みんな、遊んでいただけだって言うぞ?それを、お前が怒るからダメじゃないか。」

そのとき、僕は、「なるほどね。もう、先生を信じちゃいけないんだな。」と思いました。

以来、僕は、人とかかわらなくなったと思います。
そもそも、ふざけたい人たちに近寄らなければいいのです。
そんな人の仲間にしてもらおうなんて思わない方がいいのです。
僕のパーソナルエリアは、とてつもなく広くなりました。

人間は、相手の気持ちがわからないです。
だから、いじめは、「他人がどう感じたか」をいくら考えても、情報になりません。

「いじめを見た事がありますか?」
=うーん、あれはいじめかなあ、ふざけてるだけかも・・・

「嫌な思いをしている人はいますか?」
=いやー、人の気持ちはわからないし・・・

「いじめられたことはありますか?」
=あれはふざけてたのが、ちょっとエスカレートしただけかも。そんなことを、がまんできない自分がだめなのかも・・・

になってしまうことがほとんどです。

現在の学校では、「いじめ」の定義が曖昧で、しかも、「いじめ」を判断するのは先生や教育委員会です。
先生や教育委員会が「いじめ」を「ただふざけているだけ」と判断したら、「いじめ」は生じていないことになります。

これで、「いじめ」が無くなるわけないです。
そして、「いじめ」ののりこえかたや、「いじめ」の恐ろしさを知らない人たちは、社会に出てから、いっそう大変になります。

つらい思いをしてる人に、
「それは、お前の思い過ごしだ」「気にしすぎだ」「気にするな」と言ってしまう大人が、いかに多いことか。

僕は、助けてくれなかった先生を信じなくなりました。
でも、そのあと、助けてくれる人や、信じられる人と、たくさん出会いました。
一人ではできない事ができるようになりました。
だから、人間でどんな嫌な思いをしても、人間を嫌いにならない方がいいと思います。
この世には、必ず、信じて支えてくれる人がいます。
人間を嫌いになって、関わりを立つと、そういう人と出会うチャンスを失います。もったいないです。

でもね、やっぱり、恐ろしい人はたくさんいます。
そういう人と、距離を置くのも大事です。

そのためにも、沢山の人とかかわって、関わり方を学んだ方がいいと、僕は思います。