植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

怒濤の二日間。ツクリテフェスタ。

現在、千歳空港。
さっきまで、ツクリテフェスタでロケット飛ばしてました。

思い起こせば、一昨日金曜日、鳥取から帰ってきたのが、土曜日の0時30分。
それから、なんやかんやで、寝たのが01時30分。
次に起きたのが、土曜日の04時30分。
ツクリテフェスタの準備と、週明けの滝川高校SSH授業の準備。
で、ツクリテフェスタ開始。
ちょっと想定外の雨と、寒さ。屋外出店していた人達はかわいそう。
その中で、ロケットワークショップ。
雨のすき間を縫って、午前のロケット打ち上げは無事終了。
インクジェットプリンターの印刷物保護の防水スプレーがかなり高性能。
で、午後のロケットワークショップ。
午前よりひどい雨。でも、キットのロケットは全部生還。
でも、ペーパークラフトの大型ロケットは、湿気で強度が低下して、
最大速度に達すると同時に機体が空気抵抗に負けて、パラシュートがでてしまい、
あんまり高く飛びませんでした。残念!悲しいです。
ロケットの点火装置も、雨で機能不良も発生。
考えてみたら、今まで、大勢の修学旅行生を受け容れていますが。
こんだけの雨にあたったのははじめてでした。
で、そのあと、赤平の嵐山で友人と食事。
その日最初の食事が、嵐山の唐揚げ。幸せ。そしてビール。染み渡る。

で、翌日、今日ですね。
朝はかなりの雨。でも、雨雲レーダーは、その後晴れることを示しています。
でも、5mの北風の予報。うーむ。ロケット的にはつらい。
で、ツクリテフェスタ2日目スタート。
晴れたから、お客さんがどんどん来ます。駐車場が足りなくなりそう。
駐車場の係りの人は、相当大変だったはず。
で、ロケット打ち上げ出来るスペースは、広げようもなく、午前のロケット打ち上げ。
全機無事に生還・・・と思ったら、一機、間違って持って行ってしまった子がいたみたいで、
一機行方不明に・・・。作った子が泣いちゃった。
だから、リトライです。時間余計にいただいてしまってごめんね。
この間も、ペーパーロケットチームは食事も取らずに必死にロケット作成。

で、午後のロケットワークショップスタート。
この日は、前日に作ったけど打上を見合わせたペーパークラフトロケットもあり、
ペーパーロケットは7機。
小型ロケットは全機成功!よかった。
ペーパーロケットは、雨はないけど、風が強い。
残念なことに、薄い紙を使った機体は、風に負けて、昨日と同じ症状。早期解傘。
でも、紙を厚くして、補強した機体は、結構飛び始めます。
でも、機体の芯がぶれてる機体は、やっぱり機体を曲げる力が作用しちゃう。
で、最後の1機。これは見事に飛んでいきました。
やっとこ、ペーパーロケットの実力を発揮できました。

そのあと、速攻で車に飛び乗って、現在千歳空港。
これから、羽田経由で福岡です。
明日は、福岡の2つの高校でお話しをさせていただいて、
そこからまた、とんぼ返りで北海道です。
さすがにつかれるね。

でも、ツクリテフェスタでは、沢山の懐かしい人に出会えました。
来てくれた人、出店してくれた人、サポートしてくれた人に、本当に感謝です。

大義名分をねつ造してはいけない。

僕は、中学生から高校生くらいの頃、
「自分の事ではいくらでもがまんできるけど、ほかの人がひどい目にあうのは許せない」
という概念にとらわれていました。
誰かが、誰かに、ひどいことを言ったり、からかったりしていたら、
その間に割り込んで「お前、やめろよ」なんて、進んでからみにいきました。
そして、それが心地よかったです。
「自分は、誰かの為に頑張ってる!」ということに酔いました。

でもしばらくして気がつきました。
これは、単純に、相手を攻撃する「正義」の大義名分がほしかっただけだなと思いました。
僕は、攻撃を楽しんでいました。
そして、歴史の本を読むうちに、そういうことが、様々な戦争や紛争を大きくする
原因にもなってることを知りました。

ロイヤルウィーという言葉があります。
「我々は」「私たちは」と、自分を表現する言い方です。
これは、僕がやらかしたことに、とてもよく似ていると思います。
社会の意志、みんなの意志、常識、一般的には、という言葉で、
自分の行為や意見を、全体意見という大義名分で正当化して、相手に押しつける表現方法です。
これを使う人は、結構沢山います。

僕は、いじめや虐待をなくしたいです。
人の自信と可能性がうばわれない社会を作りたいです。
だからといって、いじめや虐待をする人にからんで、攻撃したり、倒したりしないです。
そんなことに使う時間がもったいないです。
僕は、どーせ無理に負けない人を増やした方が効果的だと思うようになりました。
だから僕は、意識して、僕の思いや考えを伝えるようにしています。

気がつけば、仲間が増えてきた気がします。
先日、沢山の子ども達を連れてきてくれた旅行会社の方は、
高校生の時に、僕の話を聞いてくれたそうです。
そして、あきらめないで、がんばって、この仕事についたそうです。
ようやく、子ども達を連れてこられるようになりました。と涙ぐんでくれました。
僕の仲間です。彼女は、彼女の方法で、いじめや虐待に対抗してくれているのだと思います。

大義名分がなければできない行動は、実力ではないと思います。
ましてや、大義名分をねつ造してはいけません。
自分の意志を理由にして、自分で行動する。これが本当の自由だと思います。

問題を解決するための仮説と行動は、自由です。

問題は、複雑な原因が絡みあっています。
そういう問題を解決するときには、「仮説」が大事になります。

「これが、このように影響しているのではないか?こうすれば解決できるのではないか?」
という仮説は、いくつも考えることができます。
その仮説の中で、最も効果がありそうなことから試すのがよいと思います。

ところが、ときどき、会議などで発生しがちなのが、
せっかく選んだ仮説を、「そうとはかぎらない」と、ひっくり返す人達です。
いやいや、もちろんそうだよ。だって、問題はいろんな原因が絡みあってんだから。
だから、切り分けて、検証していくんでしょ?
それが、その第一歩の仮説を、そもそも「そうとは限らない」でひっくり返す人達は、
問題を解決したいとか、解決できるとか、思っていない人です。
僕の経験では、そういう人達は、自分の仮説を言いません。
他人の意見に反論するだけです。こういう人達は、自分以下を作りたい人達かもしれません。
こういう人がいたら、会議は空転しかしないです。

僕は、このサイトで、教育について考えることが多いです。
多くの子ども達が、自信と可能性をうばわれて苦しんでいることを知ってるからです。
多くの先生も、「子ども達の自己肯定感が少ない」ことを問題だと感じています。
先生の中には、真剣に仮説を立て、自分なりの行動をしている人がいます。
でも、「自己肯定感が少ないんだよねえ・・・」で、思考が止まってる人もいます。

僕は、子ども達に、自信と可能性をうばわれない方法をしゃべります。それを聞いてくれた子ども達から沢山の感想文が届きます。
それらの感想文を元に、いろいろ考えた結果、人の自信と可能性がうばわれない社会を作るために、最も効果的なのが、教育の分野だと考えるようになりました。
僕は、自分の仮説に基づいて、自分の人生とお金を、問題解決のために使います。
それは、僕の自由です。

僕らがすべきことは、「仮説が正しいかどうかを議論する」ことではなく、
問題を解決することです。

もちろん、予算やマンパワーが足りないときに、それらを効率的に投じる先を一つに絞るために、仮説の有効性を検証するのはとてもだいじなことです。
でも、仮説は仮説です。そうとは限らないにきまっています。
だから、仮説に対する「そうとは限らない」という考えは、当たり前のことを言ってるだけです。なんの生産性もありません。

いろんな人が、社会の問題を解決するために、仮説を立て、行動しています。
ピエロになって、病気の人を励ましている人もいます。
スーツヒーローになって、子ども達にいじめに負けない心を伝えている人もいます。
みんなが、いろんな方法で、問題を解決しようとがんばっています。
最終目的は、問題の解決です。手法はいろいろです。

仮説を否定してくる、問題を解決できると思わない人間の言葉に負ける必要はありません。

学歴は、封建社会の身分制度によく似てる感じ。

なんとなく、学歴って、
お金で買える身分制度のような気がします。
 
江戸も末期になると、お金でサムライの資格が買えましたが、それに近いかも。
 
で、そういう社会は、身分に関係なく、実力を重視する社会に負けました。
 
でも、新しく生まれた社会でも、また身分制度が育ちました。
 
なぜかな?
 
そりゃ、身分制度の方が、楽です。
身分さえ手に入れば、努力しなくても楽ができます。
そして、努力しないで楽をすると、能力は低下する一方なので、ますます身分にすがらないと生存できません。
だから、身分制度は、どんどん強化されてしまいます。
そして、社会は腐ります。
 
身分が違うと、努力したってムダさ。がんばったってムダさ。
という、江戸時代の平民の嘆きは、
学歴がないと、努力したってムダさ。がんばったってムダさ。
という、現在の嘆きと一緒のように思えます。
 
だからおそらく、次に起きる革命は、
この身分制度との戦いかもしれません。
 
学歴という身分制度の価値を無価値にするような革命です。
 
もちろん、これは、学問を無意味とする革命じゃないからね。
学問と、学歴は、まったく異なるものです。
 
本当により深く学びたい人や、探求したい人が、大学に行くといいと思います。もちろんそれは、何歳でもオッケーです。
そうしたら、きっと、日本の大学は、すさまじい成果を上げるかもしれません。
 
もちろん、学費や、進学に必要なコストも下がります。
成績や偏差値が低いからって、自分をあきらめなくてよくなります。自分の好きなことが評価されるようになるかも。
(なにせ、好きこそもののじょうずなりけりで、好きなことは、能力が高まってしまうから。現在は、好きなことは、勉強の妨げになるので禁止されるので、能力が伸びません。)
 
この革命を実現できるのは、先の記事でも書きましたが、
まずは「企業」です。
企業が、採用条件から「学歴」を外すだけで、
日本は革命的な進化を遂げられるかもしれません。
 
いや、まじでさ。

企業が採用条件から「学歴」を外したら、どうなるね。

もしも、大学進学の理由が、
「なんでもいいから、大卒の資格がほしい」だとしたら、それは、「資格を金で買ってる」に限りなく近い状態です。
そりゃ、つけ込まれるよ。
大喜びで、高い金で売ってくれる人が続出するでしょう。
 
大学卒の資格がほしいのは、「よりよい就職」のため、だと思います。
企業が、大卒と高卒とで、採用に差をつけてるからですね。
 
で、その企業なんですけど、
企業で働いている人達も、子どもを育てています。
そして、子どもの教育費を払うために必死です。
だから、高い給料を必要とします。
それを払うために、企業も大変です。
 
これって、すごくばからしいことのような気がします。
 
ということで、企業が、採用条件の「学歴」を外したらいかがでしょう。
「学歴」はどうでもいいから、「採用試験」を、しっかりしたらいいと思います。
 
そうしたら、「なんでもいいから、大卒の資格がほしい」人が激減すると思います。
そうしたら、「なんだかわからないけど進学させなくちゃ」という雰囲気もなくなって、子ども達は、塾や予備校に行かなくて良くなります。大学の進学費だけではなく、塾や予備校の費用も浮きます。
そうすると、子どもを育てる親が楽になります。
そうしたら、企業も、いまの給与水準でも、みんなが安心して暮らせるようになり、働く人のメンタル面でもよくなるかも。
 
そして、子ども達は、生み出された時間で、もっとちがうことができます。
たとえば、中学高校から、就労体験をもっと増やせるかも。
そうしたら、企業にとっては、採用しやすい人材が増えるはず。
 
という理論が成り立つかもしれないので、
企業は、大至急、採用条件から「学歴」を外したらいいと思います。
それだけで、社会はかなり「ほっと」するかもよ。
 

貧困の原因は、お金が無いから進学できないせい?じゃないよ。

昨日、NHKで、子どもの貧困の問題を取り上げていましたが、�
「みんなができていることができない」ことが、「かわいそう」という感じで表現されていたのは、ちょっと腑に落ちませんでした。
 
例として「お金が無くて部活をあきらめた」というのがあったけど、
もしも「部活をしない」ことが、将来の可能性にマイナスであるというなら、
そもそも部活をしてない人はけっこういるし、部活でひどい目にあって、部活をやめてしまった人は、マイナスになっちゃうの?
「お金が無くて、進学をあきらめた」も、マイナスだとしたら、そもそも進学しない人はダメですか?
なんとなく、「進学ありき」「進学にはお金がかかる」の価値観を押しつけられているような感じを受けてしまいました。
 
お金が無いから、進学できないから、貧困になる。
という表現は、正しくないと思います。
無理して進学したって、働けてない人がいます。そういう人は、学費や奨学金の返済もあって、さらに困窮しています。
社会人になってからだって、いくらでも学べます。
学歴があるかないかだけで、人生の価値が決定されるような表現は、「学歴を得ないとまずい」という不安を脅迫してしまいます。
 
番組の中でも触れていましたが「高学歴だと、能力が高くなるので、より多く稼げる」のだそうです。だったら、国として、国力を増やし、税収を増やしたければ、国民全員が高学歴を得られるようにすべきです。
日本の教育支援は不十分と言われますが、それは、今のところ、支援する学費と、その後得られる税収を天秤にかけて、税収が負けていると判断しているからかもしれません。
だったら、学歴の価値は、その程度です。(所得面にそれほど差が出ないってこと)
 
僕は、この貧困問題の根源は、もしかしたら、現在の教育では教育費に見合う能力が付与されていない、ことかもしれないなと思っています。
一時的に、補助や支援はとても大事ですが、根本的に、教育を見直す必要があると思います。
(思うから、いろいろ試してます。)

仕事って、なんだ?

僕は、仕事とは、人の役にたつこと、だと思っています。
でも、この話をすると、聞いてくれている学校の先生の中には、
あからさまにクビを左右に振る人がいます。
または、「それは理想論です。世の中そんなに甘くない」と教えてくれる人がいます。

では、こういう人達は、どんな考えで仕事をしているのでしょう?

仕事とは、喰っていくために、しょうがなくするもの?
喰っていくためなら、人の役にたたなくてもいいのかな?
喰っていくためなら、人に迷惑をかけてもいいのかな?

まあ、たしかに、そういう仕事も沢山あります。
わざと壊れるように作ることで、消費を維持し続けるケースもあります。
本当は、もっと長持ちするのに、わざと賞味期限を短くしているケースもあります。
混ぜ物などで、量を増やしてるケースもあります。
価値が無い物を、価値があるように見せかけて売るケースもあります。
人の不安をあおって、安心っぽいものを売りつけるケースもあります。

少子化が問題視されてから顕著なのが、高校の統廃合です。
だから、各高校、生き残りをかけて必死です。
生き残るための大きな条件は、生徒数です。そして生徒数を増やす条件は、「成果」です。
だから、無理矢理、進学率や就職率をあげる学校があります。
お前は成績がいいんだから、もっといい学校を狙えるはずだ!
おまえなら、医学部も行けるぞ!
生徒本人の意志など関係なく、いい学校への進学を強要するケースもあります。
その結果、進学後に、学校をやめてしまう子や、心を病んでしまう子もいます。
家にお金が無いのに、無理矢理進学させられて、お金が払えなくて、家庭がめちゃめちゃになってるケースもあります。

または、無理矢理、大会で優勝したがる学校があります。
優勝したいから、能力の低い子は、いくらそのスポーツを続けたくてもやめさせられたりします。また、無理した結果、体を壊してしまう子もいます。

これは、大人の食い扶持のために、子どもの人生を犠牲にしてるケースです。
これは、人の役にたつ仕事といえないと思います。

喰っていくためにはしょうがないからと、無茶なビジネスをする人のおかげで、
生きていくための支出が増えて、その支出を支払うために、他人に迷惑をかけてまでお金を稼いでるとしたら、それは悲劇以外の何物でもないです。

僕は、「喰っていくためにはしょうがない」という言葉は、とても危険な言葉だと思っています。これは、「自分のために、他人を犠牲にしてもかまわない」という意味になることがあります。
でも、自分だけよい、なんていう都合のいいことはないです。
自分がずるしてよくしようとしたら、自分もそのシステムに飲み込まれるだけです。

だから僕は、その逆をやっています。
僕は、壊れない製品を作る努力をしました。壊れてもすぐ直せるようにしました。
それは、結果的には、使ってくれるお客さんに喜ばれました。
だから、沢山の人に使ってもらえるようになり、喰えるようになりました。
でも、壊れないものは、行き渡ったらおしまいです。
だったら、なるべく売らないのがいいです。
だから僕らは、無理に売らないです。お客様の話をよく聞いて、最適な解を考えます。
その解が、植松電機のマグネットを使わない、というのもありです。素直にそう伝え、「他のお客さんは、こういう方法でやっていますよ。」と教えると、たいていのお客さんは驚きます。
「そんな商売の仕方でいいの?」と言われます。でも、結局これが信頼になります。
お客さんが、ちがうお客さんを紹介してくれたりします。
だから、結果的には売れます。

この状態にするためには、苦労しました。沢山の「使ってくれるお客さん」の声を聞きました。
そして、そういうお客さんを第一に考えてくれる「売ってくれる人」とおつきあいするようにしました。その結果が現在です。

時々、僕らが開発中に生み出した試作品や、実験で使ったもの、または、僕の私物を、オークションに出したら、かなりの金額になりますよ。とアドバイスしてくれる人がいます。
実際に、ある展示会で配布した僕のペーパークラフトに、オークションで結構な値段がつていたことがありました。(ひどいはなしですが)
でも僕は、そんなことをしてまでお金をほしいと思わないです。
僕らのことを大切に思ってくれる人の愛情は、大切にしたいです。

喰っていくためにはしょうがない、という考え方は、自分さえも他人に食い尽くされる考え方です。だからこそ、いかにして、適切な方法で喰えるようにするかです。
僕は、その方法こそが、「人の役にたつ」だと思っています。
世の中の、悲しいことや、不便なことや、困ったことを改善しようとしたら、
それは仕事になります。
僕は、ぶれないでがんばります。そして、それを、子ども達に伝えたいです。