義務教育ではすべての人の適材適所を考えるべきです。(受験対策に特化するな!)
自分なんて・・・
勉強したって無駄だ。
努力したって無駄だ。
と思い込んでしまった人は、
最終的に奪うようになる。
と教えてくれたのは、以前来てくれたアフリカの人たちです。
がんばれない人は、生み出せない。
生み出せない人は、してもらうしかない。
してもらうは、突き詰めると、奪うになる。
暴力で奪う。
だまして奪う。
などなど・・・
人間にはだれにでも能力があります。
その能力を、なにに使うのかが重要です。
生み出すためにつかうのか?
奪うためにつかうのか?
間違いなく言えることは、全員が奪う側になった時、
社会は縮小しかしないということです。
(奪うことができるのは、生み出す人がいてくれるからだということを決して忘れてはいけません。)
だからこそ、人間の能力は、生み出すことに使えるのだということを必ず子ども達に教えたほうがいいです。
そして、どんな人だって、その能力で、人の役に立てるんだということを伝えるべきです。
言うことをきいたら、お金がもらえる。
お金をもらう(してもらう)ために、言うことをきく。
という程度の就労感を与えてしまったら、
その子達は、もしかしたら、奪う側にまわるかも。
また、お前は成績が悪いからダメだ、なんていうレッテルを貼ってしまったら、その子は、自分の能力を生み出すことに使えるとは思えなくなるでしょう。
義務教育とは、すべての子どもの能力を高め、
その能力の適材適所のきっかけを作るべきだとおもいます。
間違っても、学校の規定する能力に満たない人間はダメ人間ですよ、という閾値であってはならないです。
仕事とは、人のために役立つことです。
能力は、人のために役立つように使うべきです。
仕事も、能力も、奪うために使うべきではありません。
いまでこそ、学校ではキャリア教育が行われていますが、
それは果たして、「仕事」についてちゃんと伝えているでしょうか?
そして、それを伝える先生の就労感はどうでしょうか?
僕は、教育としてのアルバイトを、小学生くらいから認めるべきではないかと思います。
給料はお駄賃ではありません。
奪い合う社会にしないためにも、
人間の能力の使い道について、今一度、しっかり考えるべきかもしれません。