植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

「わかんない」を「パス」として使わないように。

ピンチの時に、
「どうしていいのかわからない!」
と思ってしまうことがあります。

でも僕は、そういう時は、この「わからない」という言葉を
頭の中から追い出すようにしています。

なぜなら、「わからない」というのは、
「状態」を示す言葉でしかないからです。
困った時に。「困った!」といっているのと同じです。
でも、分かりきっている「状態」を
なんぼ連呼しても、なんの改善にもならないです。

でも、人によっては「わからないんだからしょうがないでしょ!」と、逆ギレで怒り出してしまう人もいます。
もちろん、その場合も、なんの改善にもならないです。

「わからない」という言葉は危険です。
「わからない」という言葉で、
わかろうとする努力をやめてしまうから、
わからない状態が続いてしまいます。

ではもし、「わからない」という言葉を知らなかったら、
ぼくらはどういう行動をとるのかな、と思ったりもします。

そもそも「わからない」という言葉を、ぼくらは、いつ学ぶのかな?

記憶を思い起こしてみると、
「わからない」と最初につながる記憶は
「これ、わかる人、手を上げて」
のような気がします。

小学校で、この言葉に出会いました。

わかったつもりで、手をあげました。
当てられて、前にでて、黒板に答えを書きました。
まちがっていました。
笑われました。先生は怖い顔になりました。
先生のため息とともに、席に戻されました。
先生はふたたび、「はい、じゃあ、この問題わかる人、手を上げて!」と言いました。
次に前に出た子は、正解でした。先生が笑顔で拍手しています。
それが、ますます辛かったです。
あの子は、先生を笑顔にさせた。
自分は、先生を不愉快にさせてしまった・・・

僕は、この時から、手を上げられなくなりました。
手を上げて、間違っていたら・・・と思うと、
手があげられないのです。

以来、僕は、学校の勉強でちょっとでも不安があると、
「わかりません」と答えるようになりました。
「わかりません」のほうが「間違える」よりもマシに思えたのです。
「わかりません」は、まるで、トランプの「パス」のような効果があるように思いました。
まもなく、「わかりません」は「自分をスルーしてください。」というようなものになっていきました。
でも、それをやっているうちに、ぼくは、どんどんと
考えなくなっていきました。
だって、「わかりません」って言ったら、楽なんです。
「わかりません」っていうだけで、レースから降りられるのです。
だから、ますます成績が悪くなります。


でも、僕がラッキーだったのは、学校の勉強以外の好きなことがあったからだと思います。
そこでは、わかっていたはずのことがまちがっていても、
だれも責めないのです。笑わないのです。
自分のなかで、「あ、そういうことだったのか!」だけですみます。
自分の大好きな世界では、「わからない」なんて思わなくていいのです。知り続けていくことが楽しいのです。
だから僕は、考えるようになったのだと思います。

「わからない」「わかりません」を、
「パス」のようにつかっていると、
きっと、思考が停止します。
もしも、その習慣が身についてしまっているならば、
「わからない」「わかりません」と思った時に、
深呼吸をしたらいいと思います。
その上で「なんでこまっているのか?」を、紙に書いたらいいです。
さらに、「このままだとどうなるか?」も書くといいと思います。
その次に、「どうしたいのか?」も書くといいと思います。
この三つが情報として揃ったら、
「だったらこうしてみたら」がスタートできるかもしれません。

そして、忘れてはならないのは、
「困っている」のは、一人ではどうにもならないからです。
だから、「どうしたいのか?」を考えるときに、
「自分には無理」と思うのではなく、
「できそうな人」「経験していそうな人」を
自分の人脈の中でリストアップするといいかも。
それでも足りなきゃ、そういう経験をした人を、
本の中で探すのもいいかも。
とにかく、「自分以外の誰か」という要素を、
問題解決の中に取り込むと、少し前に進むと思います。


「わからない方が、間違うよりマシ。」は、
「失敗する可能性があるから、やらない。」に直結しやすいです。
これは、とても危険な状態です。

だから、「わかるこども」を褒めるのも大切だけど、
「わからないことを、わかったこども」も褒めてあげてほしいです。そして、すべての子が、わかるように、支えてあげて欲しいです。
(というか、わからないことがあるこどもを、スルーして次の学年に行ってしまうのは、教育としてどうなんでしょ?いま、中学校が苦労しているのは、小学校でわかっているべきことが、わからないままで中学校に送り出されてしまうケースがあるからかも。あ、でも、大学でも、かなりの時間を高校のおさらいに使ってるらしいなあ・・・。教育の役目は、「授業を指定の時間施すもの」ではなく、「必要な能力を与えるためのもの」だと思うのですが・・・。僕は小学校、中学校の留年は必要だと思っています。)
こどもたちが、「わかりません」を「パス」の意味で使わないでいいような接し方をして欲しいと思います。

(と書くと、「時間がない現場をわかっていない人間の発言だ」と言い出す人もいるのですが、できてる学校もあるんですけど。って書くと、「地域の問題だ、家庭の問題だ!」と言い出す人がいるんですけど、いやだからこそ、国が国費をかけて日本全国に教育を提供するんでしょ?って、いっつも思います。)