植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

「努力」をあんまり意識しないほうがいいかも。

僕の名前は「努」です。
この名前がいやでした。
なぜなら、僕が小学生の頃に、「やまぐちさんちのつとむくん」という歌が流行ったからです。
「うえまつさんちのつとむくん、いっつもあたまがへんよ〜」などと替え歌を歌われて、悲しかったです。
なぜ自分が「つとむ」なのか、悲しかったです。
なぜ自分が「あきら」とか「ジョー」ではないのか、悲しかったです。

でも、いまは「努」という名前は好きです。
なぜなら、吉田戦車さんの「プリプリ県」という漫画の主人公と同じ名前だから・・・違います。

以前、電磁石の仕事をしている時、戦後から現在までの建設機械整備や設計の仕事をされた方が、植松電機のマグネットの説明を聞いてくれて、そして最後に、僕の名刺をじっと見つめて、「まさに、努力のたまものだね」と言ってくださったことがありました。なんともうれしかったです。

でも、「努力」ってなんだろうな?と思います。
きっと「努力しよう」と思ってしてる人はあんまりいないと思います。
「努力」ということばは、とても曖昧で、具体性に欠けます。
多くの人は、よりよくしようとして頑張った行為が、後から考えたら、努力しちゃったなのかもな、と思うのかもしれません。
もしかしたら「努力」とは「よりよくしよう」という行為の総称なのかもしれません。

でも「努力」ということばが、やけに具体的になるシーンがあります。それは、「努力が無駄」だとおもったときです。
人は、「よりよくしよう」と頑張った結果、それが思った成果にならなかったとき、「あの努力は無駄だった」と思いがちです。
頑張ってやったことが、認められなかったときも、「あの努力はなんだったんだ!」と悲しくなります。
でも、努力は無駄だ。無駄な努力はしない方がいい。と思ったら、努力ができなくなります。
そう。あれほど「努力」は曖昧だったのに、努力が無駄だとおもった途端に、かなり具体的に「努力ができなくなる」のです。

たしかに、頑張った結果がよろしくない、ということは多いです。
でも、努力は無駄ではないです。
なぜなら、頑張った段階で、以前の自分とは確実に変わっているからです。成長しています。
ただ、やり方を間違えただけです。
だから、違う方法でやってみればいいだけです。

たとえば、山を登るんだって、いろんなルートがあります。
でも、そのルートを知らないで、いきなり直登しようとして失敗したのかもしれないし、そもそも、いきなりエベレストはないわ〜、かもしれません。基礎体力をつけたり訓練したりが必要なことも多いです。

あの人は、あんなことまでできてるのに、自分は、こんなことしかできていない。などと、思うと、自分のしてきた努力は無駄だ、とか、劣っている、とか思いがちですが、
実は、この場合、比べているのは、「成果」や「能力」です。「努力」を直接的に比べるのは困難です。
でも、自分より優れていると思う対象と自分を比べて、自分は劣っていると考えてしまうことは、とても無意味なことです。
だって、その比較は、勝てっこないもん。
そしてそれは、劣等感を増幅させてしまうことが多いです。
それは、自己肯定感の真反対です。
そしてそれは、よりよくを求めにくい精神状態を強化してしまう可能性が高いです。
それは、どんどん濃縮されてゆき、やがては、他人に対しても、「努力しても無駄だよ」「無駄な努力はしないほうがいいよ」「高望みするな」「身の程を知れ」というアドバイスをするようになってしまう可能性もやります。

同じトレーニングをしているのに、同じ成果が出ない、というのも、「自分の努力が劣っている」とは限りません。
それは、トレーニング方法が、自分に合っていないのかもしれません。

この世に、無駄な努力はありません。
努力は、かならず報われます。変化や成長につながります。
でも、努力をしないことはできます。
よりよくを求めなければ、努力は自動的にうまれません。
だから、だいじなのは、「よりよくを求める」ことだと思います。

そして、あんまり「努力」という言葉にとらわれないほうがいいです。努力は、しちゃうものです。