植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

失敗がゆるされない環境は、無責任を生み出すかも。

私は、指示されたことを、指示された通りにやっただけです。
私には責任はありません。

というセリフは、とてもよく目にします。

過去の戦争で、戦争犯罪に関わった人たちが、
同じようなことを言っていたという記録は
少なくないです。

ドイツの軍事組織論のなかには、
勤勉で優秀なものは参謀にしろ
怠惰で優秀なものは指揮官にしろ
怠惰で馬鹿なものは兵隊にしろ
勤勉で馬鹿なものは即座に銃殺にしろ
(言語は日本語ではないので、この漢字訳が最適かどうかはわかりませんが、ネット上でもっとも多く使われてる表現をのせました。)
とあるそうです。

このなかで、一番危険なのは、
「勤勉で馬鹿なもの」となっています。
指示されたことをひたすらもくもくとやってしまう。
それは、指示が間違っている時には、大問題に発展することがあります。

さて、日本の国立競技場に関わった人たちは、
(1)本当に無責任なのか
(2)勤勉で馬鹿なのか



うむ。どっちでもまずいです。


かつて、僕のふるさとの芦別で、
大規模なリゾート開発がありました。
そして、大失敗しました。
その責任が誰にあるのかは、結局明確にはならず、
莫大な借金の返済が残りました。

税金を使って行う事業は、失敗が許されません。
だから、この、「結局、誰の責任(判断)なのかわからないシステム」は、
日本の行政が時間をかけて自分たちを守るために練り上げたものかもしれません。

いま、大学生にも、この思考は普及しています。
「自分で判断したら責任を負うじゃないですか。だから、文章で指示してください。」を、研究開発の仕事で真顔で言うそうです。
だから、研究開発できない研究者が増えていると、
多くの企業が嘆いています。(僕の知ってる範囲では)

これから先、ロボットの性能が向上していくのに、
人間が、責任回避のために、どんどんロボット以下になっていくように見えて、悲しいです。

でもね、ちいさい子どもたちは、働き者だし、考えたがるし、
やりたがるし、知りたがります。
そんな子ども達にロケットを作ってもらう時、
僕らは、「作り方は教えないから、みんなで助け合って作るんだよ。失敗したら助けを求めるんだよ。」と言います。
でもたまに、先生や保護者が「あんた、なにやってんの!ちがうでしょ!」「ちゃんと説明書よみなさい!」「あー、ちがうちがう、だめだめ、勝手なことするんじゃない!」などと、
強烈な指導をしてくれるシーンを見かけます。
もちろん、これらのセリフの合間には、しかめっ面と、ため息です。
こういう先生や保護者に関わる子達は、手が動かなくなります。
怒られるくらいなら、やらなくていいわ。になります。

失敗させまい。失敗はゆるされない。という環境が、
もしかしたら、「結局、誰の責任(判断)なのかわからないシステム」を作り上げるのかもしれません。

教育とは、失敗の避け方や、責任の避け方を教えるためのものではありません。
教育とは、失敗を安全に経験させることです。
と、僕は思っています。