植松努のブログ(まんまだね)

基本的に、facebookの僕の記事を転載します。

失敗が許されない、ではなく、成功率を高めたい。

昨日の中学校は、素敵な中学校でした。
なにが素敵って、
講演のあとに、質疑の時間を作ってくださいました。
おそらく、準備されたものではないと思います。

すると、手が、あがるあがる。
しかも、先生がまた素晴らしい。
たいていは、先生がマイクを持って生徒のところに走りますが、
昨日の学校は、マイクのところに手を挙げた生徒を出させました。
これは、かなり生徒にとっては、緊張の条件です。
しかも、この方式だと、自分の前の人が自分の質問とかぶった時、
どうにもなりません。
手を挙げる方式の場合は、誰かが先に質問したら、
自分は手を下げればいいだけですが、
もう、前に出されてしまっているのです。
次の質問を考えなければいけません。
これもまた、生徒にとっては過酷な条件だったはずです。

しかし。
質問をする生徒も、緊張はしてるけど、しっかりしています。
質問を聴く生徒も、朗らかだけど、優しいです。
そして、質問が終わった後、聴いていた生徒が拍手します。
それがまた、優しいです。

個人の考えや、個人の行動が、バカにされない。
これは、ものすごく当たり前のことなのに、
なぜか、それができない社会が多いです。
でも、この学校では、それができていました。
素晴らしい学校だと思いました。

僕は、その気持ちを、素直に先生に話しました。
先生は、嬉しそうに、そして、照れくさそうに、
「いやー、子どもっぽいんですよ。」とおっしゃいましたが、
僕は、子どもっぽいことがとても大事だと思います。

だって、僕が魅力的だなと思う大人は、みんな子どもっぽいです。
もちろん、TPOに応じて、ちゃんと大人の振る舞いはできます。
でも、それはきっと演技です。
心は、こどものまんまの人が、いろんな素敵なことをやらかします。
彼らは、やりたがりの、知りたがりです。
だから、どんどん成長してしまいます。
広くて深い知識と経験を身につけてしまいます。
だから、魅力的なんです。

逆の人もいます。
知りたがらない。やりたがらない。
めんどくせえ。だりい。することねえ。退屈だ。ひまだ。
でも、そんな人も、小さい頃は、知りたがりの、やりたがりでした。
誰かが、彼らの、興味や好奇心を奪い取ったのだと思います。
その誰かとは、知りたがらない、やりたがらない人達です。
これは、連鎖し濃縮されるのだと思います。

なぜ、知りたがらないのか?やりたがらないのか?
それは、「ちゃんとしなさい!」と言われたからかもしれませn。
ちゃんとするためには、知らないことがあってはいけません。
だから、知らないことにであったら、「知る必要もないくだらないことだ。」と切り捨てます。
ちゃんとするためには、失敗は許されません。
だから、できることしかやりません。やったことがないことなんて、やりません。

知らないこと=だめ
失敗=だめ
と教えてしまうと、その人達は、
他者の好奇心や興味を奪い取る人になるかもしれません。

もちろん、教えることでお金をもらうプロとしては、
功率が高い方がいいです。知識は多い方がいいです。
だって、プロなんだもん。
だから、プロならば、成功率を高めるように準備し練習します。
知識を増やすように、どんどん知るはずです。
野球選手だって、プロは、必死に練習し、必死に学ぶでしょう。
その努力を怠れば、すぐに戦力外になります。
その深刻さと責任は、ビジネスだからです。
その、ビジネスの価値観を、子どもの教育に押し付けない方がいいです。

ちなみに、
失敗が許されない。という言葉がありますが、
人間は、体調も変化するし、心も不安定です。
だから、人間は、失敗する可能性を必ず持っています。
ということは、失敗は許されない、という表現は、あまり適切ではありません。
本当に失敗が許されないのであれば、その仕事のやり方から
真剣に考えるべきです。
おそらく、人間を介在させないことが一番効果的です。
(そうしている産業は増えています。)
人間の価値を守るためには、むしろ、「成功率を高める」ほうがよいのではないかと思います。
僕らは、成功率を高めるために、過去の失敗を研究します。
この場合、失敗は、未来をよりよくするためのデーターです。

教育とは、失敗の避け方や、責任の避け方、要領いい生き方を教えるためのものではありません。
しかし、失敗を避け、責任を避け、容量よく生きようとしている大人はとても多いです。そういう人は、背中でそれを語ってしまいます。

教育とは、失敗を安全に経験させるものです。
失敗をデーターにして、よりよくすることを教えるものです。
だから、教育においては、失敗に罰をあたえてはいけません。
生徒を泣かせて自白させて反省させれば良いと言うものではありません。
失敗は、なんでだろう?と、だったらこうしてみたら?と
考えるべきです。
考える練習をするべきです。

僕は、子どもの輝きが、奪われない社会を作りたいです。
そのためには、大人の生き方を変える必要もあるのですが、
歪んだ大人をかえる努力は大変です。
僕の限りある人生は、そんな非効率なことに遣いたくないです。
だから、輝きを奪われなかった子達が、輝くおとなになることを期待します。かれらが、10年後に、子どもの輝きが奪われない社会を作ってくれることを期待します。
だから、学校で子ども達に話しを聞いていただけるチャンスを作っていただけたら嬉しいです。